大正時代の槍・穂高リゾート構想
2011 / 07 / 15 ( Fri ) 大きな山並み見てると、思いつくことも自然と大きくなるんだなぁ。
信濃毎日新聞から、
中房温泉と周囲の山並み。 登山というものを日本人が楽しみ始めたのは江戸時代で、 でも、娯楽と云うより、信仰対象で、お山はまだまだ修験者のものでした。 万延元年(1860)、イギリスの外交官オールコックが外国人として初めて富士山に登ったのを皮切りに、 明治の夜が明けた開国以降、外国人による登山が盛んに行われ、 “登山”というものが庶民の娯楽の一ジャンルになって行きました。 映画化され、話題になった『劒岳 点の記』の舞台は明治末期(明治39年頃)。 その頃にはもう西洋の道具が導入され始め、 近大登山の黎明期と称される大正時代になると、日本中で盛んに登山する姿が見られ、未踏峰は次々に姿を消していました。 ちなみに、いまでも読まれている山岳雑誌『山と渓谷』は昭和5年に創刊されました。 明治から大正時代にかけて、北アルプスでは上條嘉門次や小林喜作、宇治長次郎ら、猟師がガイドを務めていました。 山小屋の建設も進み、登山道、縦走路が次々に開拓されていった時代です。 我々はその足跡をたどっているに過ぎません。 新たな世界が次々に開けて行く時代でした。 山岳会も次々に誕生していました。 帆布のザックを背負った若者達がアルプスの峰峰を踏み分け、周遊する、 大正時代はそんな壮大な計画を夢想しても全然、おかしくない時代でした。 ちなみに、僕の尊敬する不世出の登山家・加藤文太郎が登山に魅せられたのも大正の末頃で、 北アルプスに姿を見せ始めたのは昭和に入ってからです。 でも、山小屋を次々建ててリゾート構想…と云った辺りは、 絶頂だった頃の西武グループが、志賀と苗場のスキー場をゴンドラで結び、一大リゾートを作ろうとした話を思い出しました。 夢は大きく。 人間の想像することは実現できる、といいますし。 「山岳リゾート構想」かぁ。 学閥・官僚主義がはびこった軍部が暴走した太平洋戦争さえなければ、とっくに実現していたかも知れませんね。 |
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