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林道大引割線へ、再び! 吉村虎太郎
2014 / 06 / 22 ( Sun )
「長沢の滝」を見物した後、国道439号線に戻り、さらに西へ。

 01


道ばたに変なオブジェが立ち並んでるところがありました。
 四角い塔には-
 なぜか龍が巻き付いています。
 がるるぅぅぅぅ。
 タヌキも。
 「四三九狸」とな?

 02

奈路(なろ)地区へ。
ここは、幕末に活躍した志士・吉村虎太郎の生家のある地区です。
 生家は奧の道沿いにあります。
 吉村虎太郎について。

風雲児 吉村虎太郎

天保8年4月18日生。
坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山と並び「土佐勤王の四天王」の一人。
 文久3年「天忠組」総裁として大和義挙を行いましたが9月27日、今の奈良県東吉野村鷲家谷で戦死しました。
時に虎太郎27歳でした。
 「吉野山 風に乱るるもみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」
は辞世の歌として有名です。
現在この上に生家の門が当時のまま残っています。

平成7年3月 東津野村教育委員会


 解説板のとこの小径を上がります。
 坂の突き当たりが生家です。
 石段のエントランス。
 「今の世にほしい人ぜよ! 虎太郎」

この門のみが当時のままです。
 門内に箱が取り付けてあり、ふたを開けると-
 寄せ書きノートがありました。

この家は後年に建てられたもので、生家はこんな家ではありませんでした。

近所の人によると、生家を復元しようという話があるようです、実現するといいですね。

 門を振り返って。
右の門の向こう側は小庭のような空間があって-
 石碑などがあります。
 「吉村虎太郎先生誕生地」
 「先生天保8年4月18日此屋敷生る」
 「高知県史跡 吉村虎太郎宅跡」
 

県指定史跡 吉村虎太郎宅跡
                             昭和44年8月8日指定
 明治維新の志士吉村虎太郎先生は、芳生野村庄屋吉村太平の長男として、天保8年(1837)4月18日この地で呱々の声を上げられた。
 先生は、生れながらに鋭敏な頭脳と果敢な行動力をもっておられ、幼児期のエピソードにもその面目が躍如としている。
 嘉永元年、12歳にして早くも北川村庄屋を命ぜられ、安政元年に須崎下分村庄屋、安政4年には梼原村庄屋に就任、それぞれの地に優れた治蹟を残されている。
 ときに、幕政は芳しからず、人権尊重のため封建打破を志す先生は、蹶然として世直しの大業に身を投ぜられ、東奔西走同志と相計り文久3年(1863)8月、天誅組の総裁として大和義挙の采配をとり奮戦された。
 時に、八・一八の政変起り戦は利あらず転戦負傷の身を同年9月27日、大和東吉野鷲家谷に至り遂に敵銃弾の集中を受けられ、「吉野山風に乱るるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ」と辞世の句を残され、27歳を一期として果てられた。
 この遺業が曙光となって衆人を動かし5年の後に大政奉還の大改革となったのである。
 ここに、先生の業蹟を偲び、生誕地を史跡として永く保存するものである。
                             昭和53年3月    東津野村教育委員会


生家跡を俯瞰して。

ちなみに、生家跡の裏、一段高いところに小さな墓が並んでいますが、
ここいらを治めていた人の墓(と教えてもらったんですが、詳細は忘れてしまいました)。

 生家前の道を下ると-
小高い丘の右手に-
 「芳生野城跡」の看板がありました。
谷の奥のピークに城跡があるようです。

芳生野城跡

 室町時代から戦国時代にかけて築かれた芳生野城の城館跡である。
現在は山林となっている。
詰、郭の遺構も発見されており城山全域を範囲とした単郭式山城であったと考えられる。
北川川の西部、下野地区を見下ろす標高574mの山の頂に城館があったといわれている。
南方約2kmに北川城を非常によく見回すことができ、この城は伝達中継基地の役割を果たしたものとも考えられている。
 調査成果は1984年(昭和59年)、高知県教育委員会によって「高知県中世城館跡」にまとめられている。
                  種別 遺跡(室町・戦国時代)
                  所在地 津野町芳生野甲字城ノ岸
                  所有者または管理者 地主
                                    津野町教育委員会


なんだろう…と、看板を見ていたら、「城跡へ行くの?」と、ご近所さんに話しかけられました。

男の人で、虎太郎の生家跡のすぐ近くに住んでおられる方で、
歴史や自然にも造詣が深く、つい話が弾んでしまい、長話をしてしまいました。

虎太郎のこと、この辺りのこと、いろいろと話せたことがうれしかったようで、
家に一度戻って、なかなか入手できないらしいパンフレットを2種、下さいました。

ひとつは「よみがえる心のふる里 四万十源流物語 北川の巻」という、
ここいらの史跡、名勝、旧跡、民俗、景観、いきものなどを解説したものでした。

もうひとつは「四万十川源流域の魚類」で、四万十川に生息する魚についての小冊子。

男の人は、この小冊子の作成に参加され、裏に名前が載っておられました。

集落下の河原にある一本橋を整備したり、いろいろと活動されてるそうです。

とてもいい出会いでした、偶然とは実に愉快、愉快なり。

辞去した後、教えてもらった一本橋を見に行きました。
 河原へ降りる道。
 ありました、一本橋。
 同じの、長沢の滝にもあったなぁ。

四万十の水辺八十八カ所
60 早瀬の一本橋
 四万十川の沈下橋の原型といわれる橋で、流れ橋とも言います。
長さ9メートル、幅60センチ、厚さ30センチほどの木の板3枚の橋で、古来より地域間の行き来のための重要な役割を担っていました。


 1本と云いながら3本でできてます。
 こんな幅です。
 作業風景写真。
この手の橋は完全に固定はされておらず、水かさが増すと橋桁から外れるようになっています。

でも、木の一方がロープで岸と繋がっているので、水が引いたら、
よいしょっと橋桁に載せるだけで元通りになるのでした。

長野に住んでた頃、裏が千曲川の源流だったのですが、似たような橋がありました。

台風とか大水の時は外れちゃうんだけど、一人で持ち上げられるくらい小さな橋だったので、
水が引いた頃にはいつの間にか元通りになってました。

川沿いにはいろいろ、あるみたいです。
 あのとき、声をかけられなかったら-
気付きもしなかっただろう。

出会いってあるんだなぁ。

でも、長話しすぎたおかげで、随分、日没が近づいてしまいました。

焦る…。

つづく。
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