2017 09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 11  
林道大引割線へ、再び! 維新の門
2014 / 06 / 22 ( Sun )
大引割小引割、長沢の滝、吉村虎太郎生家跡と、
ほぼ、観光してます旅の最後も、銅像を見に行きます。

 01


拡幅・直線化がかなり進んだ国道439号線を走り、東津野の町へ。
お山の中にあるけど「海洋センター」。

この「B&G」と冠する施設は、「公益財団法人ブルーシー・アンド・グリーンランド財団」、
ボートレースの収益金で全国480市町村に地域海洋センターを建設し、
地元自治体に無償譲渡している団体です。

奧のグラウンドは、テントの片付けの手伝いバイトで来たことがあったなぁ、
雨が降ってて、もう、十年くらい前、久しぶりに来たので覗いたりしました。
 津野町観光案内図。

 国道沿いの町並みを抜け-

 02

国道197号線と合流です。
 また来るね~♪
 R197から見た合流丁字路。

今度は梼原方面へ行くので、右折し西へ。

5kmほど走った-
 03

高野地区。

この辺りも十数年前、スクーターでちょくちょく来てました、
あの頃は、ツーリングマップから適当に選んだ場所を訪ねるってこと、やってましたから。

「高野の舞台」という、国指定の重要文化財がある町なんですが、まず、道ばたにあったのが-

 銅像が建つ小公園。
 「ちょっと待った!」って感じの像。
 あの中曽根元総理の直筆だ!

中平善之進略歴

 中平善之進名は穏敦(やすあつ)、幼名を鴨之助という。
宝永6年(1709)北川庄屋上岡吉左衛門次正の長男として生まれる。
 幼にして利発、享保8年(1723)6月、15歳にして北川大庄屋代勤を聞届けられた。
元文3年(1738)郡方の勧めで檮原村大庄屋中平弥左衛門の養子となった。
藩においては財政建直しのため宝暦2年(1752)国産方役所をおき、国産品を指定し問屋を定めてその利益を吸収する制度をとった。
 津野山方面の御用商人は蔵屋利左衛門で、彼はその専売権を利用して買いたたいたので農民は窮乏して来た。
善之進は数度津野山9ヶ村の庄屋を招集して協議し藩庁に対策を訴えた。
 藩はこれを握りつぶして何らの対策を立てないのみか、その願いを不当として弾圧をさえ加えかねない有様で、農民等は怒って「蔵屋を殺そう」と騒ぎ始めた。
善之進はそれを押し鎮め、自ら藩庁に出頭しこの窮状を訴えようとしたが、芳生野村庄屋が藩庁に密告したので、足軽一隊が派遣され主だった者を召捕り入牢せしめた。
時に宝暦5年(1755)これを「津野山騒動」と呼んでいる。
 善之進は牢獄にあって蔵屋の非を叫び続けたが、蔵屋の死にあい黒白(こくびゃく)をつける術(すべ)を失ない、宝暦7年(1757)7月26日神在居において打首の刑に処せられた。
 この時突如暴風雨となり荒れに荒れたので、これを世に「善之進時化(しけ)」と呼んで善之進の怨霊のなせる業(わざ)として恐れられた。
 その後藩庁では国産方を廃止する処置をとったが、それ以上に彼の義に倒れた精神は郷土に生きて明治維新の志士を輩出し、回天の事業をなしとげたのである。
 善之進ときに49歳であった。
                                 昭和60年10月29日
                     中平善之進銅像建立期成同盟会


「蔵屋、おぬしも悪よのぉ~」
「お代官様もお人が悪い、うひょひょひょひょ」
ってな、時代劇によく出てくるパターンの犠牲者になった人なのね。

怨霊になったなんて、世が世なら、将門や道真みたく、お祀りされてもおかしくない人だったんだね。

さて、「高野の舞台」は、この像の後ろに屋根が見えてます。
 見下ろす感じで。

国指定重要有形民俗文化財
高野の舞台
                                 昭和52年6月14日指定
 この舞台は、明治6年8月に建築されたもので、舞台裏でのハンドル操作により、舞台を廻転させる当時としては進んだカラクリの「鍋蓋上廻し式舞台」である。
 前橋工業短大の松崎茂博士の調査発表「農村舞台考」の中に、
「高野の舞台は、その機構で日本唯一の残存する鍋蓋上廻し式の農村舞台で、発展過程の歴史的資料であり、学術的にも非常に貴重なものである。」
と述べられている。
この昔より、この地方で、民衆娯楽として農村歌舞伎が盛んであったことは、各所に残る農村舞台や、旧家に残る浄瑠璃本等によって推察される。
中でも、当高野地区は最も盛んであったようで、山本家には、天誅組で活躍した前田繁馬先生愛蔵の、「伊賀越道中記」等数多くの浄瑠璃本が保存されている。
 言い伝えによると、この舞台建築前にも廻り舞台があつたとのことであり、藩政中期頃既に同種の舞台が建築されていたことも考えられる。
 価値高いこの舞台とともに、農村歌舞伎の伝統も守り続けてゆきたいものである。
                                 昭和53年3月
                                 東津野村教育委員会


「高野の舞台」は国道より下にあるので、少し先にある坂を下ります。
「舞台」は三島神社の境内にあります。
 まず、神社を参拝。

狛犬コレクション。
右側の建物が「舞台」で、歌舞伎の上演のないときは、「装置」も見られません。

農村歌舞伎自体、4年に1度の開催、次は平成27年なり…。

 04

次の撮影ポイントは、同じ高野にある天狗高原に通じてる大規模林道の入口。
四国カルストから大規模林道を降りてくると、ここ、高野に出るのだ。
 前はよく来たなぁ。

この後-
 トンネルをふたつ通過して梼原入り。

 05

道の駅や雲の上ホテル・温泉、キャンプ場などがある一画へ。

トンネルを出てすぐの広場にあるモニュメントは-
 「土佐勤王の志士 維新の道」

この界隈には、坂本龍馬が脱藩する際に通ったとされるルートが遊歩道整備されています。
 
国道の南側に道の駅「ゆすはら」。
 「雲の上のみち」とか-
 「龍馬脱藩の道」とか-
周囲にはいろんなお散歩ルートがあるようです。

道の駅の下にあるのが-
ちょっと贅沢なホテル、「雲の上ホテル」。

ホテルと繋がっているのが-
こちらは500円で入れる、源泉掛け流しの温泉施設、「雲の上温泉」。

もっと早い時間にたどり着けてたら、お風呂でのんびりしたかったんだけどねぇ、残念。

ホテルは高いけど、もっと安くってツーリング客には専用の宿泊施設もあります。
 「ライダーズ・イン・雲の上」。
ライダーズ・インって簡易宿泊所は高知県内に何カ所かありますね、
愛媛にも欲しいなぁ。

 06

梼原の町へたどり着きました。
ある意味、ここが今回の旅のゴール。

梼原に来たら尋ねておきたい場所があります。

「維新の門」。

ここで国道197号線とはお別れし、国道440号線へ右折。
 この坂道で台地の上へ-
 お城みたいな建物は-
地区改善センターで、この台地には、和田城と呼ばれたお城があった場所です。
センターの隣にある銅像群が「維新の門」です。
 題字は橋本大二郎。

吉村虎太郎、前田繁馬、那須信吾、中平龍之介、
吉村、前田、那須は天誅組のメンバー、中平は禁門の変で命を落としました。
 横から。
 中央は、掛橋和泉。
梼原出身の勤王の志士。

坂本龍馬、澤村惣之丞、那須俊平、
澤村は龍馬の片腕として活躍、俊平は信吾とともに龍馬の脱藩の手助けをした人。

 横から。
 龍馬のアップ。
 後ろから。
 志士たちについて。
夕焼けをバックに撮れたら…、なんて。

碑文

 幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。
この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。
また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
 それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。
 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。
その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。

                        平成7年11月11日建立
                        撰文 檮原町維新の門群像建立委員会


さあ、あの山越えて帰ろう…。

国道沿いのスタンドで給油も済ませ、松山へ向け、長い帰路の始まりです。

あ、そうそう、久しぶりに来た梼原の町、街路整備が行われ、

きれいな町並みになってましたよ (^_^)

その街路の終わりにあるのが、
三島神社。
 屋根付き橋が素敵です。
 龍馬脱藩の道も通ってます。

この後、通称・地芳道路、国道440号線を北上。

 07

地芳トンネルへ。
この時点ですでに午後6時前、薄暗くなってます。
写真は明るく見えるけど。
トンネルができてから初めてきたけど、すっかり道がよくなってますね、
昔はどうしようもないくねくねやまみちだったのに、幹線国道みたいになって、
400番台の国道にしちゃ似つかわしくないほど立派な道です (^^;)
 トンネル手前に旧道分岐。
 昔はよく走ったなぁ。
 地芳トンネル。
 2984mかぁ。
奥道後の水ヶ峠トンネルより、ちょっと長いくらい。
 愛媛県に帰ってきました!
 出口
ホントはもっと暗かったよ。


三坂峠を下る頃にはどっぷりと日が暮れてしまってました。

松山の夜景を見ながら坂を下りました。


おわり。


楽しんでいただけましたでしょうか? (^_^)
関連記事

17:31:37 | コメント(回答)(0) | page top↑
林道大引割線へ、再び! 吉村虎太郎<<古い方< 最新記事 >新しい方>>富士登山、子供の高山病に気をつけて
コメント
コメントの投稿














←管理人以外は読むことができないメッセージにしたい場合はチェックを

「バカ」「アホ」「変態」「狂」... 使いようによっては他人を不愉快にさせるワードは投稿不可となっています、ご注意下さい。

コメントいただくのはとてもうれしいんですが、
「送信」ボタンを押す前にいま一度、読み返してみて下さい。

「よく読んでもらえば分かる」「行間を…」ということを相手に望むのはわがままです。

お怒りな場合でも、大人な対応でぜひ、よろしくお願いします。 <(_ _)>

お山でも町でもメールでも、自分がイヤなことは他人にしてはいけませんよね。

なお、当ブログは一個人のブログです。
コメントの削除や受信拒否の設定をする・しないも正直、私個人の勝手です。
不愉快だと思ったコメントはばっさり削除します。
違う意見を持つ人と共存できないクレーマーと判断したら、即、ブロックします。

相手が聞く耳を塞いだら、どんなに正論でも一生届くことはないでしょう。

いろいろ、すみませんが、ご了承下さい。

林道大引割線へ、再び! 吉村虎太郎<<古い方< 最新記事 >新しい方>>富士登山、子供の高山病に気をつけて