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松江、撮って出し 2
2014 / 07 / 09 ( Wed )
冬、来たときはすでに真っ暗で、
夜間照明に照らされた姿しか見ることができなかった松江城へ。

ぐるっとお堀に囲まれたお城に入れる場所は5カ所ありますが、
今回はメインゲートである大手門跡から。
 ここにも銅像が建ってます。
 堀尾吉晴公。

松江開府の祖 堀尾吉晴公

 天文12(1543)年、堀尾春晴の長男として尾張国御供所村(愛知県大口町)に生まれた吉晴は、幼名を仁王丸、長じて小太郎と称し、次いで茂助と改めた。
父の仕えた岩倉織田氏が織田信長により滅ぼされると、早くから豊臣秀吉に仕え、長篠の戦い、備中高松城攻めに活躍し、山崎の戦いでは天王山を占拠して明智光秀を敗走させた。
 賤ヶ岳、小牧・長久手の各戦に武功を樹て、秀吉の下で近江国佐和山4万石、遠江国浜松12万石へと出世した。
朝廷春宮坊護衛の長官を意味する帯刀先生にも任ぜられ堀尾帯刀と称した。
容貌端正、性格温厚で仏の茂助と呼ばれた反面、戦場では勇敢に戦い鬼の茂助とも呼ばれた。
秀吉の信任厚く。
政務仲裁役である三中老の一人に任ぜられた。
 秀吉没後は徳川家康に与みしたが、三河国池鯉鮒の刃傷事件で重傷を負う。
家督を継いだ子の忠氏が関ヶ原の戦いに出陣し、その功で出雲・隠岐2国24万石を与えられた。
父子は尼子氏の旧城富田城(安米市広瀬町)に入るが、広い城下が見込め、交通の要衝である松江に拠点を移すことを決める。
城地をめぐり父子で意見が分かれたが、忠氏の急死後、吉晴は子の志を継ぎ、亀田山に城を築きその麓に城下町を造ることを決意する。
吉晴は秀吉も認める普請上手で、北の丸で指揮を執ったと伝わっている。
慶長12(1607)年に着手し、五年目、城下の完成を目前に69歳で没した。
この像は、松江城の築城とその城下造成を指揮する、吉晴の雄姿である。



大手木戸門跡から入ってすぐの広場は馬溜跡。
正面の石垣の上が二の丸。
 石碑の前に-
 のらにゃ (^_^)
城内でぽちぽち、のらにゃたちに会ったけど、あまりフレンドリーじゃなかったにゃ。

大きな四角い石積みだけが残る大手門跡を抜け、
 二の丸へ。
 ふたつ目の階段。
階段脇のクスノキ、大きかったなぁ。

二の丸入口の三の門跡。
 お城の登閣料は560円。
広い二の丸にある-
 松江神社。
 本丸への階段にいた、のらにゃ。
 お!今日は門が開いてる!
前回は、駅から延々歩いてきたので、着いたときには閉門時間をとっくに過ぎてて、
今回はバス移動を選択したおかげで、間に合いました。
 入ってすぐの券売場。
でも、天守閣に入れる時間には間に合いませんでした。
(春夏は午後6時、秋冬は4時半までです。)

夕暮れ時の本丸。
お客さんは僕ひとり。
山陰に唯一現存する天守、松江城です。
 松山城に比べれば-
 コンパクトなイメージ。

史跡 松江城     昭和9年5月1日国指定

 堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
 しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
 築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。
城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20~30米の内濠をめぐらす。
 標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。
天守は本丸の東北隅に築かれている。
二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。
本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
 その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。
城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり藩主の御殿があった。
 石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
 城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
 明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。


 入りたかったなぁ…。

 見下ろして。
宵闇迫る街を見晴らして。
ちなみに、宍道湖方面は写真右端ですが、城山は低いので、湖面は見ることができません。

日没にはまだ少し間があったので、前行けなかった城の北側、
小泉八雲記念館や武家屋敷がある辺りへ行くことにしました。

さっき乗ってきたバス、レイクラインで通ったとき、とっても雰囲気がよかったので。

 天守閣を見上げて。
 ライトアップも始まりました。

薄暗い散策路を下り、城山の北側を横切ってる車道へ出て、西へ坂道をとぼとぼ下っていると-
 護国神社がありました。
北の丸だった場所です。
 マンホール。
観光客もいない、道沿いのお店もみんな閉まってる時間帯、
お昼間の仕事疲れが足に出始めた頃、
お堀にかかる稲荷橋に出ました。
橋の上から。
 新橋。
 新橋の上から西を見て。
 武家屋敷方面。
このお堀の川を水面から楽しめる遊覧船が定期的に出ています。

あ~、もちっと早く仕事が終わってたら乗れたのに~~~っ!

と残念に思いながら、武家屋敷方面へ歩いていたら、
湖面にV字の波を小さく立てて近づいてくるものがありました。

最初、カモとかの水鳥か、大きなコイかなんかだろうと思ってたのですが、
伸びた首も見えないし、背びれも見えない…。

なんだろう?と、じぃ~っと見てたら…。

 び、ビーバー?
 い、いや! ヌートリアか!?
誰かが逃がしたのが住み着いちゃってるみたい。

近づいては来なかったけど、派手に逃げる感じもなく、目の前を横切って、
新橋の下へと泳ぎ去って行きました。

ビックリしたぁ (^_^)

そんなこんなで、たどり着いたときには、

小泉八雲関連の施設もとっくに閉館時間を過ぎ-
 入口周りだけ-
 撮って終わり。
 武家屋敷も閉門。

時計を見れば7時もとっくに過ぎ、8時に近いくらい。

気づけば、晩ご飯も食べずに歩いてる… (>_<)

ホテルが夕食付のプランだったので、ご飯を気にせずに歩いてたんだけど、
いい加減、シャリバテってきました。

ぐ~ぐ~吠えるお腹をなだめながら、駅前のホテルまで、とぼとぼ、歩いて帰りました。

 新大橋商店街。

東側、伊勢宮町側の路地に入ると、スナックとか飲み屋のネオンサインがたくさん光ってて、
どこか雑多で、いかがわしい、昭和な雰囲気が僕には好みな風景でした。

でも、僕は飲み屋通いはしない質なので、まっすぐ、ホテルへ、
夕食のラストオーダーまでにはなんとか間に合いました (^_^)
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