2017 06123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 08  
また下関へ 3
2014 / 08 / 10 ( Sun )
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した島、巌流島

 上陸してすぐにある解説看板。

島の地図の部分を拡大してみました。

巌流島案内図

 ■現在の大きさ 103,000㎡
 ■埋め立て前の船島の大きさ 17,000㎡
 ■住所 下関市大字彦島船島648番地
 島内には、立入り禁止区域があります。

 …

 当時の島は「舟」の形に似ていました。
 それが、「船島」とも呼ばれている由来です。

と、書いてありました。

島の右側は埋め立てでできた私有地なんだって。

 龍馬と下関

龍馬とお龍も巌流島に上陸?

 巌流島は、慶長17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地として広く知られていますが、実は坂本龍馬の逸話も残されています。
 慶応3年(1867年)春、下関(本陣 伊藤邸)に世帯を構えた坂本龍馬とその妻お龍。
ある夜、巌流島にこっそりと渡り、花火を打ち上げたと、後年、お龍が語っています。
 どこで花火を打ち上げたかは皆様の想像にお任せいたします。

と、書いてありました。


巌流島

 正式名称は、船島です。(下関市大字彦島字船島)
島の面積は埋立て部分を含めると10万3千平方メートルの広さです。
慶長17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりにも有名です。
「二天記」によると、巳の刻過(午前10時)武蔵が到着。
待ちくたびれた小次郎との間で決闘が始まりました。
武蔵の木刀は振り下され、頭上を打ちました。
小次郎もまた太刀を払いましたが、武蔵の木刀は小次郎の脇腹に振り下され、勝敗は決しました。
勝った武蔵も相当慌てていたらしく、とどめをさすのも忘れ、船に飛乗ったということです。
負けた小次郎の流派にちなんで、巌流島と呼ばれるようになりました。



遊歩道の始まりにある、ふたつの小屋、
 右は海鮮炭火焼のお店、左は休憩所。
お店って云っても、僕が着いたときは誰もいなくて、小屋の中もがら~ん。
下関の彦島でカキ小屋やってるお店が、オフシーズンの土日だけ、島に来てやってるそうです。

帰りの船を待ってるときに、桟橋に漁船が着いて、食材とかスタッフの人が運び込んでました。
BBQみたくして食べるみたいなんだけど、海見ながら食べたら、さぞかし美味しいだろうなぁ。

休憩所の小屋には、
 武蔵。

宮本武蔵

生まれは、兵庫県とも岡山県英田群宮本村ともいわれている。
生涯を剣術探究に捧げ生み出した兵法が、太刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流である。
わずか13歳にして始めての仕合をかわきりに吉岡一門との仕合、大阪冬・夏の陣の激戦も経験。
小次郎との「巌流島の決闘」等、多くの仕合に勝ってきたが、ほとんどが撲殺だともいわれている。
謎につつまれた天下無双、宮本武蔵。


 小次郎。

佐々木小次郎

周防国岩国とも福井県足羽のうまれとも、とにかく出目、生年等ほとんどが謎につつまれている。
中条流を学び、剣の腕を磨いた、剣の天才であった。
自ら厳流という流派を興し、刃渡り90センチ以上もある長刀をあやつり小倉藩の指南役に抜擢される。
頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る「燕返し」をもって巌流島(舟島)にて武蔵と対決す。


 巌流島の決闘のお話。

巌流島の決闘

慶長17年(1612年)4月13日。
船の形に似ていることから、「舟島」と呼ばれる彦島沖に浮かぶ小島で、武蔵・小次郎が雌雄を決した。
小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。
試合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島へ。
「武蔵!遅参とは何事か。臆したか!。」
というや物干し竿を抜き放ち鞘は波間へ。
それを見た武蔵はにやりと笑いこう叫んだ。
「小次郎破れたり!。」




休憩所を出たとき、裏の茂みにある祠が目に入りました。
 「船島神社」だそうです。
 なんじゃろかと寄ってみると、
 岩がふたつ、祀ってありました。

それから、小屋の前の広場で、紙芝居形式で巌流島の解説をしてるおじさんがいます。
水あめとカタヌキがついて100円だそうで、船が着く度、えらく呼び込みしてます。
僕はパスしました。

 海沿いの遊歩道。
さすが無人島、観光客の姿が途切れると、寂しいくらい静かで、なんにもないです。
 船をモチーフにしたモニュメント。
そこからすぐに、海沿いから右へ、島の内側へ入る道があり、
 「← 佐々木巌流之碑」とな。
 石畳をたどると、ありました。
 こちらがその、
 佐々木巌流之碑です。

佐々木巌流之碑

これは、明治43年(1910)に船島の開鑿工事(工期 1908~1910)が完了したのを記念して建てられた碑です。
はじめは、島の中央に建てられていましたが、いつの頃かこの場所に移されました。
いまでも佐々木巌流を偲び、手を合わせる方が途絶えません。

本体・自然石 高さ・120cm 幅・65cm 厚さ・45cm 台座の高さ・100cm

巌流島奉行 下関市長


二人の決闘があったことは歴史的には事実のようですが、
その内容に関しては諸説あり、書き手によって異なるものばかり。

武蔵が遅刻したと云う有名な下りは吉川英治の創作だし、
武蔵は連れてきた弟子と共に小次郎をぼっこぼこにしたとか、
決闘の後に、弟子がぼっこぼこにして殺したと書かれた書物もあります。

なにより、ちゃんと計算すると、小次郎は実は60近い老人だったらしい (-_-)
名をあげ、どこぞの大名に仕官することが目標だった武蔵はそのとき、20代。
これが事実なら、一体、どういう流れで二人が対決するに至ったか、不思議でなりません。

道の奥には、
 多目的広場があって、
大人数でお弁当休憩できるテーブルセットが並んでました。
写真奥の林の向こうは民有地で、島の半分が立ち入り禁止となっています。

海沿いの遊歩道に戻り、潮風を感じながら歩いていると、
 また休憩所があったけど、
お年寄りが数人いて、なぜかノートパソコンを囲んで談笑中でした。
60歳は越えてる風だったけど、キーボードも普通にタイピング。
ノートパソコンは森の中からコードを引っ張って来てるし、ハテナな一団でした。

護岸された海岸(波打ち際は立ち入り禁止)に立ち、海側のパノラマを撮ってみました。
写真左は下関、関門橋・関門海峡をはさんで、写真右は九州の門司。
また曇ってきた空、でも、暑い。

歩け、歩け…。

 あ、土手の上になんか見えた!
遊歩道が右に折れるところ、土手の踏み跡をよっこら登ると、
いた! 武蔵と小次郎っ。

精悍な顔つきの宮本武蔵。

ちょっと殺気のない佐々木小次郎。

 巻物調の解説板。

巌流島 決闘の地

古代伝説

本州と九州の間は陸続きでその下に潮の流れる穴があったが長年の侵食と地殻変動によりいつの時代にか陥没、その流れた土壌が船島となったと平田篤胤説を公表、それまでは本居宣長の『古事記伝』に書いた「土壌が流れて引島に」や大同小異の伝説があった。
島名は、下関側で「舟島(現在は船島)」、小倉側で「向島」と、それぞれ違った呼び方が受け継がれることになる。
慶長17年(1612)4月13日(12日・14日説あり)

宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘

嘉永2年(1849)7月
 吉田松陰が下関周辺を視察。
 巌流島に上陸。
 小次郎の墓に参り「近くの山に二郎兵衛がからいどあり」と書き遺している。

明治43年(1910)10月31日
 「佐々木源流の碑」が島に建立される。

大正10年(1921)11月2日
 斉藤茂吉が渡欧の途中に島に渡り、
 「わか心いたく悲しみこの島に命おとしし人をぞおもふ」など歌三首と随筆「巌流島」を残す。
 その後、斉藤茂吉と菊池寛が武蔵と小次郎の大論争を展開。

昭和30年(1955)
 巌流島の住民がピーク時約30軒になる(50軒近いとの説あり)

昭和48年(1973)4月
 島に残っていた老人1人が島を去り、居住者ゼロとなる。

昭和62年(1987)10月4日
 巌流島いっぱいに篝火を焚きアントニオ猪木とマサ斉藤のプロレス「夜のデスマッチ」興行。

平成2年(1990)9月30日
 巌流島にて岡山県大原町(武蔵出生地説)と福井県今立町(小次郎誕生地説)が、下関・熊本両市長立会いのもと、姉妹縁組に調印。

平成15年(2003)
 巌流島整備事業完工。
 小次郎像(原型寄付・村重勝久)
 武蔵像(デザイン・広瀬直樹)の設置。
 浮き桟橋・釣りデッキ・人工海浜の整備。
 歴史に触れる観光地としての歩みを始める。
 NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」放映
 佐々木小次郎像 松岡昌宏 除幕(平成14年12月11日)
 宮本武蔵像 市川新之助 除幕(平成15年4月14日)

遅れてやってきた武蔵は、櫂の木刀を引っさげ素足で船から降り立った。
小次郎は待ち疲れていた。
小次郎はいらだち、刀を真っ向に振り立て、眉間めがけて打ちおろした。
同時に武蔵も櫂の木刀を打った。
その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。
小次郎の打った刀はその切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。
武蔵は倒れた小次郎を見つめ、また木刀を振りあげて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった、武蔵の袴のすそを三寸ばかり切り裂いた。
が、武蔵の打ちおろした木刀は、小次郎の脇腹、横骨を打ち追った、小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。
武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して、立ち去った。
                     (「二天記」より要約)

小次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
そして、まだ見開いたままの小次郎の両眼から、急に、生きている光が失せていった、激しい声をあげて、新之丞が泣き出した。
小谷新右衛門が立ち上がって、海のほうを睨んでいた。
ぎらぎらと光る海を、武蔵の小舟は、東へ向かって流れを変えた潮に乗り、下関のほうへ、ひた走るように影を小さくしている。
東馬は、静かに小次郎の瞼を閉じた、まだ固くつかんだままの小太刀を、その右手から放そうとして気がつくと、小次郎の左手は、小さな黄色い花を、そっと摘むような形をしていた。
あの、浜ぐるまの花であった。
                     (村上元三 「佐々木小次郎」より抄出)

資料・写真等・絹の道の会編「しものせき・人・物語」第4集より
                     下関市


土手の北側に入り江みたいな格好の砂浜があります。
砂浜の中央になんかある…、行ってみよう。
 砂浜入口に御触書。
海で泳いじゃダメとか、焚き火やゴミ捨てもダメよって、お奉行様のお達しです。
浜に出ると、土手から見えた黒いものは、
 伝馬船でした。

この伝馬船は、下関市の山陰方面で使用されたものですが、武蔵が伝馬船に乗って巌流島に渡り、小次郎と戦ったその当時をしのんでいただくことをイメージして設置していますので、船に乗ったり、触ったりしないで下さい。

巌流島奉行   下関市長


ここから先、遊歩道は島の突端にある休憩所まで続いていますが、
後はおまけっぽいので、ここで引き返すことにしました。

 こんな石碑を見つけたり、
元来た道を戻りました。

桟橋に戻り、ずっといる紙芝居おじさんの呼び込みをかわし、船待ち。

下関側のパノラマ。

 帰りの船が来ました。
船が来るのは40分間隔ですが、その40分あれば、島の観光は充分できます。
紙芝居おじさんに捕まらなければ。
海鮮炭火焼も我慢すれば (^_^)

 また、展望デッキに座って、
 唐戸の港に戻りました。


つづく。
関連記事

12:24:32 | コメント(回答)(0) | page top↑
また下関へ 2<<古い方< 最新記事 >新しい方>>また下関へ 4
コメント
コメントの投稿














←管理人以外は読むことができないメッセージにしたい場合はチェックを

「バカ」「アホ」「変態」「狂」... 使いようによっては他人を不愉快にさせるワードは投稿不可となっています、ご注意下さい。

コメントいただくのはとてもうれしいんですが、
「送信」ボタンを押す前にいま一度、読み返してみて下さい。

「よく読んでもらえば分かる」「行間を…」ということを相手に望むのはわがままです。

お怒りな場合でも、大人な対応でぜひ、よろしくお願いします。 <(_ _)>

お山でも町でもメールでも、自分がイヤなことは他人にしてはいけませんよね。

なお、当ブログは一個人のブログです。
コメントの削除や受信拒否の設定をする・しないも正直、私個人の勝手です。
不愉快だと思ったコメントはばっさり削除します。
違う意見を持つ人と共存できないクレーマーと判断したら、即、ブロックします。

相手が聞く耳を塞いだら、どんなに正論でも一生届くことはないでしょう。

いろいろ、すみませんが、ご了承下さい。

また下関へ 2<<古い方< 最新記事 >新しい方>>また下関へ 4