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また下関へ 8
2014 / 08 / 14 ( Thu )
デジカメのバッテリー切れで、門司港お散歩の足跡を残せなくなり、
ちょっとガッカリしてたところに、おまけ以上の猛暑で、汗だくだく、体はだるだる。

夏の太陽はまだまだ高かったけど、下関のホテルに帰ることにしました。

JRで関門トンネルをくぐり、下関駅へ。

駅からホテルまでは、なるべく日陰を選んで歩きました。

やっと帰り着いたホテル、エアコンの効いた部屋で横になりたかったけど、
そのまま夜まで眠ってしまいそうだったから、すぐにシャワーを浴びてリフレッシュ。

タブレットでGoogleMapsを見ながら、歩いて行けそうな距離にあるお散歩場所をチェック。

ほてりも収まったので、もう一度、外出しました。

今度は北の方へ、足を伸ばしました。

GoogleMapsが選んだルート、裏通りっぽい街路を抜けて行きました。

 茶山通り。
戦前から栄えた繁華街だったそうですが、どこの地方都市でも同様に、
大型店の進出によってシャッター街のような寂しさ漂う町並みになってしまったようです。

茶山って云うくらいだから、通りは坂道になっています。

下関は取り巻く海沿いに平地が少しあるくらいで、松山ほどの平野はありません、
すぐ後ろが山だし、住宅地はなだらかな丘陵地を開鑿して形成されているので、
松山が平面的(2D)なら、下関は立体的(3D)な町です。

 坂と階段の町、と表現しても差し支えないでしょう。
上に車道があるとこ、ないとこあって、荷物の配達とか大変だろうなぁ、
年取ってこの階段を登り下りすること考えたら、僕なら引きこもり老人になるなぁ。

でも、旅人にはとっても“見知らぬよその町”感にどっぷり浸ることができて、
ただ歩いてるだけで楽しかったのでした。

坂を下ると、グリーンモール商店街って通りに出ます、
駅の近くは“リトル釜山”と称される、焼肉や韓国食材を扱う店が多いコリアタウンになってますが、
僕が合流した辺りは普通のアーケード街、韓国風なものは目に付きませんでした、
それより、もう夕方だからか、シャッター下ろしてる店舗ばかりでした。

商店街を左に逸れ、路地をいくつか入った角に、
 目的の場所がありました。
 商業地と宅地が混在する裏通り、
 前回、行きそびれた場所、
 高杉晋作終焉の地です。
「東行」は高杉が自らに付した号です。
英国公使館焼き討ち事件や横浜襲撃計画など、言行が過激過ぎて江戸から召還させられた晋作が、
髷を切って坊主となり、草庵を結んで十年の隠遁に入ると称した際、
崇拝していた西行法師の名にちなみ、いずれは東へ行って大事をなすとの理想を込めてか、
東行と改名、「西へ行く人を慕いて東行くわが心をば神や知るらむ」と詠いました。

国道からひとつ奥に入っただけとは思えない静かな場所で、
建物と隣接しているのと、植栽の影響で、薄暗い立地になっています。
実際、ヤブ蚊がぶんぶん襲ってきたので、じっとしてられませんでした。

高杉晋作終焉の地

 高杉晋作(号・東行)は天保10年(1839)8月20日、萩藩士高杉小忠太の嫡男として萩城下に生まれ、萩校明倫館に学ぶ傍ら、松下村塾で吉田松陰に師事し尊攘思想を養いました。
 文久3年(1863)6月、攘夷の決行で外国艦に砲撃された下関を防備するため来関し、直ちに奇兵隊を結成しました。
奇兵隊は「志」があれば庶民でも入隊を許した画期的な軍隊でした。
元治元年(1864)8月、下関戦争の戦後処理にあたり、また、同年12月には長府功山寺で挙兵して藩論を討幕へと導きました。
 慶応2年(1866)6月からの四境戦争(第二次長州征伐)では、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で撃退しましたが、既に病に冒されており、慶応3年4月14日、新地の庄屋林算九郎邸の離屋があったこの地で没しました。
27年と8月の短い生涯でした。
 なお、遺骸は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に埋葬されました。



ヤブ蚊から追われるように辞去。

没した場所が史跡として保護されるような人物が、僕の同時代に、さて、何人いるだろう?

 通りを北へ、鳥居の方へ。
終焉の地へはこの通りから入ってきました。
 車道をはさんで神社があります。
神社は「厳島神社」、夏祭り中でした。
でも、その前に、気になるのが、隣の、
 「晋作」って串焼き屋さん。
表に「全国晋作会連合会 下関支部」の看板もあったけど、
全国晋作会連合会を検索したら、2008年から更新が止まったままのサイトが出てきました (^^;)

この夏はまだお祭りに行ってないし、知らない町のお祭りに興味津々、覗いてみることにしました。

石段の入口、「晋作」の反対側に屋台が一軒、松山で云う「東京ケーキ」の屋台でしたが、
この屋台には名前がなくて、でも、とても人気のようで、子供が数袋提げて帰ったり、
ドライブスルー状態で買っていく車もいました。
 提灯や幟はためく石段を登ると、
狭い境内でしたが、地元の青年団がステージでカラオケタイム中、異様に盛り上がってました。
 参道に大きな輪。
 「茅の輪」です。
TVとかで見知ってたけど、ウチの方の神社にはなかったので、初くぐり。
ホントは、輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うそうです。

拝殿で、明日の仕事もミスなく帰れますようにとお願いしたり、山ほど神様とお話ししてきました。


狛犬コレクション。

カラオケで盛り上がる境内を眺めていたら、あれ?と思うものが目に入りました。
 鐘楼の鐘が…
 太鼓っ!
えっ? どういうこと?

 直径110cm、重量390kgのこの大大鼓は、、かつて小倉城内(現北九州市)北側の櫓にあって城下に時を告げていたものである。
 慶応元年(1865)四月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌
2年(1866)6月、大島口(山口県大島郡)・芸州口(広島県)・石州口(島根県)・小倉口(福岡県)の四境で戦いの火ぶたが切られた。
この四境戦争での長州軍の勝利は倒幕への重要な契機となったが、中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となり、長州軍は奇兵隊・報国隊の二隊を先鋒として戦い、遂に慶応2年8月1日、幕軍総師小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。
攻め入った長州軍は余燼の中かららこの太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った厳島神社に奉納したのである。
 現在、維新顕彰並びに小倉戦争の記念行事として、ここ厳島神社では毎年9月の第1土曜日に「太鼓祭」を催している。


高杉晋作が戦勝祈願を行った神社!
小倉戦争の戦利品の太鼓!

偶然立ち寄っただけのに、なんと奇遇な!


それから、社務所を覗いたら、「晋作勝守」って晋作がらみのお守り、売ってました。
中にいた、お祭りのはっぴ着たおばちゃんがなかなか気づいてくれず、手間取ったけど、
自分のおみやげに800円で買い求めました。

お守りを手に、偶然を喜びながら石段を降りたとき、石段脇に、

萩藩新地会所趾の石碑を発見。
 こちらには「萩藩新地御用所跡」とあります。
萩藩=長州藩の支所みたいなものがあった場所です。
第一次長州征伐で破れた長州藩は幕府に恭順の意を示し、尊攘倒幕派は投獄、謹慎、
奇兵隊も解散命令が出、高杉晋作は博多まで逃れていました。
晋作は、日本が欧米列強の植民地になってしまうことを恐れていました。
元治元年(1864)12月15日、長府功山寺で挙兵した晋作は、この新地会所を襲撃します。
この襲撃を契機に藩内のムードは再び倒幕へと傾き、
長州藩は一気に明治維新へと突き進んで行くのでした。

夏祭り、覗いてみてよかったなぁ。

神社に行くクセつけといて、ホント、良かったよ (^_^)

神様、感謝っ!


つづく。 (次で終わりだよ)
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