2017 051234567891011121314151617181920212223242526272829302017 07  
スポンサーサイト
-- / -- / -- ( -- )
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--:--:-- | page top↑
大洲城に行ってきた話 2 大洲城へ
2015 / 07 / 30 ( Thu )
大洲城は肱川を渡った向こう岸にあります。
市役所や小・中・高校、「臥龍山荘」や「大洲まちの駅あさもや」がある昔ながらの市街地のはずれ。

ちょこっと小高い丘の上に鎮座しています。


大洲っていま、大洲インター周辺に大型店舗が続々進出して、どえらい賑やかなことになってますね。
南予の雄、宇和島の元気まで吸い取ってるかのように…。

大洲市内でも、お城のある昔ながらの市街地は、インター周辺に元気、吸い取られちゃってますね。
 アーケード街、なんか寂しい…。

一方通行な街路を抜けてくと、
 大洲市民会館&駐車場。
駐車場はかつて、城のお堀・内堀でした。


角を曲がりお城へ向かうこの道の左側も内堀でしたが、いまは面影もありません。


道の途中にあった昔ながらっぽいお店。

 市民会館の突き当たりを左折。
石垣が残るこのクランクは、枡形の櫓下御門(二の丸大手門)があった跡です。

 曲がると緑地のなかに、
 白い蔵の「下台所」がありました。
 “台所”と云いつつ、食糧庫として使われていました。
 真新しそうだけど、往時から現存する建物です。

入り口部分と床下はこんな感じになってました。
天守閣はすぐそこに。

ちなみに、天守閣は平成16年(2004)に復元されました。
往時のまま、現存している建物は、この下台所と、国の重要文化財に指定されている4つの櫓だけです。


下台所の西側の、つい100年とちょっと前まで、侍たちが往来していた天守へ向かう坂道。
坂の側が「二の丸御殿」の跡で、石垣の下が城主が政治を執り行った「表御殿」。
石垣上部は、城主の住まいだった「奥御殿」がありました。

 奥御殿跡は公園整備されてます。

 舗装され、公園のような心地よさのある坂道。

主道は左に曲がりますが、右には本丸の石垣の下を行く小道もありました。

 左にまがって登ると、
 「西二の丸跡」の広場があります。
写真左の建物はトイレです。

西二の丸跡は芝生の広場になっていて、遠足のお弁当タイムに最適な場所。
広場の奥に像が見えます。


江戸時代初期の陽明学者「中江藤樹」の像でした。

近江聖人 中江藤樹先生 (1608~1648)

 先生の名は原、通称は与右衛門、生家は近江の小川村(滋賀県)屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたので、藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。
 大洲は、先生が10歳から27歳まで過ごされた立志・感恩・勉学の地である。
大洲の人々は、先生ゆかりの地として、その学徳を追慕し、藤樹先生の心をいつまでも継承しようと、この城山に銅像を建立した。

※教え-「孝」「致良知」「慎独」「知行合一」など
※著書-「翁問答」「鑑草」「春風」「捷径医筌」など

平成9年11月吉日 記 大洲藤樹会



中江藤樹は、近江(滋賀県)の出身でしたが、養子として米子に赴いた後、
米子の藩主・加藤貞泰が大洲に国替えとなったのに合わせて移住してきました。
母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶され、脱藩。
脱藩は重罪でしたが、才能を認めていたお殿様は咎めることをせず、追っ手も差し向けませんでした。
近江に戻り、私塾を開いた屋敷に藤があったことから、門下生から藤樹と呼ばれるようになりました。
身分の上下をこえた平等思想を説き、武士から商工人まで広く浸透、没後、「近江聖人」と讃えられました。

像のすぐ後ろは石垣ですが、ブルーシートがかぶされ、立ち入り禁止となっています。
西側の眺め。
こちら側にも巡ってきていた内堀の跡はすっかり、家並みが建て混んでいます。


振り返って、天守を仰ぎ見て。

 車止めを抜けて行くと、

本丸への道は右へ曲がります。
まっすぐ行った広場は「北の丸」の跡で、
 北西からの登城道が分岐しています。

その登城道はジグザグな階段になっていて、
 内堀の名残を残す菖蒲園に繋がっています。

 本丸に向かって登ると、途中に、

もう一段、平らかな場所があります。

 その天守石垣の真下側の広場に、

井戸がありました。

 広場の北西隅は発掘調査中で立入禁止。

 天守を見上げて。

さあ、本丸へ。

 本丸でまず出迎えてくれる、天守を凌駕する大木。

本丸に到着!(写真は本丸奥から振り返って撮影)

 大洲城外観。
中央が天守で、明治21年(1888)、老朽化により取り壊され、平成16年(2004)、木造で復元されました。
左の高欄櫓、右の台所櫓は解体を免れ、現存、国の重要文化財に指定されています。


お城の中は…


つづく。
関連記事

18:00:00 | コメント(回答)(0) | page top↑
大洲城に行ってきた話 1 広田・内子経由<<古い方< 最新記事 >新しい方>>大洲城に行ってきた話 3 大洲城入城
コメント
コメントの投稿














←管理人以外は読むことができないメッセージにしたい場合はチェックを

「バカ」「アホ」「変態」「狂」... 使いようによっては他人を不愉快にさせるワードは投稿不可となっています、ご注意下さい。

コメントいただくのはとてもうれしいんですが、
「送信」ボタンを押す前にいま一度、読み返してみて下さい。

「よく読んでもらえば分かる」「行間を…」ということを相手に望むのはわがままです。

お怒りな場合でも、大人な対応でぜひ、よろしくお願いします。 <(_ _)>

お山でも町でもメールでも、自分がイヤなことは他人にしてはいけませんよね。

なお、当ブログは一個人のブログです。
コメントの削除や受信拒否の設定をする・しないも正直、私個人の勝手です。
不愉快だと思ったコメントはばっさり削除します。
違う意見を持つ人と共存できないクレーマーと判断したら、即、ブロックします。

相手が聞く耳を塞いだら、どんなに正論でも一生届くことはないでしょう。

いろいろ、すみませんが、ご了承下さい。

大洲城に行ってきた話 1 広田・内子経由<<古い方< 最新記事 >新しい方>>大洲城に行ってきた話 3 大洲城入城
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。