2017 051234567891011121314151617181920212223242526272829302017 07  
スポンサーサイト
-- / -- / -- ( -- )
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--:--:-- | page top↑
高松城、丸亀城 1 高松城 1
2015 / 08 / 09 ( Sun )
はい、またまたお城です。

今度は香川のお城です。

なぜ、急にお城ばかりなのか…。

それは、スタンプを集めたくなったから。

JR四国主催の、
 「四国お城スタンプラリー&スイーツめぐり」。

四国中に散らばる15のお城を巡ってスタンプを捺してもらい、
スタンプの数や条件に応じて、抽選でスイーツやオリジナルグッズの賞品がもらえるというもので、
3月20日(金)から9月30日(水)まで開催中。

3月20日と云えば、僕が高知にいた頃。

でも、んな企画が始まってたの、全然、知らなくて、高知城のスタンプはもらい損ねてます。

この時点で松山城、湯築城、大洲城、川之江城のスタンプをゲット。

仕事で高松にはよく行くので、高松城のスタンプはそのときに…と思っていたら、早々に声がかかりました。

それも数日、泊まりがけの仕事。

ホテルに1泊した次の朝、朝食と仕事に出る前のわずかな時間に 高松城 を訪ねました。

高松の定宿は高松駅やお城の近くで、おまけにレンタサイクルも完備。

朝6時すぎ、フロントで自転車の鍵をもらって出ました。

空は薄曇り。

あ、高松城の跡地は別名「 玉藻公園 」と呼ばれる城址公園になっていて、
東と西にある入口の西の門は、なんと日の出から日没まで開いています。

だから、夜が明けてれば、朝イチにお邪魔しても大丈夫。

お城のすぐ横を琴高松琴平電気鉄道、略してコトデンが通ってます。
この南側は、石垣・お堀・線路・道路の順番に並んでいます。


西の門の方、お城の西側へ回り込むと、コトデン琴平線の始発駅「高松築港駅」があります。
(長尾線も起点は瓦町駅だけど、始発はここから出てます)

西の門。
右の石垣の後ろに料金所があります。

その右の石垣の上には往時、「弼(ゆみだめ)櫓」が、左の石垣の上には「簾(れん)櫓」がありました。

 料金所、公園内側から撮影。
入園料は、大人(16歳以上) 200円。

…と、ここで問題発覚。

お城に来た大目的のスタンプが、朝早すぎてもらえない!?と云うのです。

スタンプは朝9時からじゃないと開かない、園内にある施設にあるって…。

まぁ、パンフレットにはちゃんと書いてあったので、よく読んでたら、失敗しなくて済んだんだけど、
この料金所でもらえるものとばかり、早合点してた僕のミス。

あ~~~あ。

でも、早出したスタッフがいるかもって話で、とりあえず、園内散策ついでに訪ねてみることにしました。

入ってすぐ、右に広がる空間は「二の丸」跡。

 二の丸跡東側のこの通路へ曲がれば本丸跡・天守台へ行けますが、
ひとまず、スタンプをもらいに、直進。

 「鉄(くろがね)門」跡を抜け、

「三の丸」跡へ。


三の丸側から見た鉄門跡。
左の石垣の上には鉄門櫓があったそうです。

鉄門

 三の丸から二の丸へ入る門としてかつて鉄門がありました。
門の上部に長屋状の建物を両側の石垣に渡すように建てられた櫓門という形式の門です。
その名の通り鉄板張りの門で、門の北側石垣の東端から約1mの位置に、鉄板のサビが縦方向に直線として残っており、この位置に門扉があったことがわかります。
 石垣解体修理に伴う発掘調査では、石垣の上部において豊島石と呼ばれる凝灰岩を組み合わせて作られた東西2.3m、南北1.3m、深さ80cmの床下収納状の施設が発見されました。
石垣の盛土中から17世紀中頃の遺物が出土していることや、寛文2年(1662)の落雷に伴う火災により二の丸北部の建物が焼失し、建替えが行われた記録が残っていることから、火災に伴い石垣の積直しも行われ、床下収納が設けられたことが推定できます。




鉄門を抜け、三の丸に入ってすぐ左に、

水を勢いよく取り込む水門があります。

高松城のお堀は海水を引き入れた日本三大水城のひとつ。
水門から流れ込んでくるのは、すぐ目の前の高松港の海水です。

水門

 高松城は、北は瀬戸内海、そのほかの三方に堀を巡らせた海城であり、日本三大水城の一つに数えられています。
海上から見るとその威容はすばらしいものです。
明治時代には「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたり、与謝野晶子によって「わたつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城 龍宮(海底の宮殿)のごと」と詠まれたりしています。
 江戸時代には内堀・中堀・外堀の3車の堀で囲まれていましたが、明治初期に外堀の埋立てが行われ、徐々に市街化が進み、現在約8万㎡のみが城跡として残っています。
また、城の北側も明治時代の度重なる築港工事に伴う埋立てにより、海と接しないようになりました。
このため、現在、堀と海は唯一城の北側を通る国道30号の下に所在する水路によってつながっています。
堀の水位は潮の干満によって変わっていますが、水門によって水位調節することもできます。
海から稚魚が潮に乗って水門から堀に入り、成長した魚(クロダイ、スズキ等)が泳いでいるのが見えます。




 

お堀は遊覧船に“城船”して水上から楽しむことができます(大人 500円)。
こちらも朝9時からスタート。

高松藩松平家の泳法

 藩祖松平賴重公(英公)は、寛永19年(1642年)5月28日、高松城に入城し「讃岐の国は、海辺の国なれば、水練は武道の一班たるべし」と、翌20年夏、藩士の今泉八郎左衛門盛行に命じ、お船蔵西の堀溜にて藩士に水練の指導をさせた。
 賴重公は、入封の年の6月に、城内のお濠で泳がれたと記録にある。
 昭和53年4月、松平家13代賴明氏を会長として、水任流保存会を結成し、毎年6月の第1日曜日には、天守閣東側の内濠にて英公様追悼游泳祭を行っている。




 スタンプをもらいに、
生け垣で囲まれた「内苑」エリアへ。


通路に設置された飛び石、ひとつひとつが直径1m近くあって、武家の威信が現れているように感じます。

 石灯籠も立派な大きさです。

内苑は国の名勝に指定されている日本庭園。
老松や石橋、石燈籠、飛び石、枯山水…、江戸時代の面影を残しつつ、再設計・作庭されました。


内苑中央にある屋敷は「披雲閣」。

藩主の住居として、また藩の政庁として建てられた御殿です。
内苑のほぼ全体を占めるほど、大きな御殿でした。
けれど、明治維新後、老朽化を理由に取り壊されました。
大正に入った頃、松平家12代当主・賴寿伯爵が別邸として再建。
往時の半分の大きさになりましたが、142畳敷の大書院のほか、槙の間、松の間、そてつの間、
波の間には、昭和天皇・皇后両陛下が2度もされ、宿泊。
昨年平成24年7月9日、国の重要文化財に指定されました。


飛び石をひょいひょい渡ってって、門をくぐると、
披雲閣の正面に出ます。

披雲閣(旧松平家高松別邸)

平成24年(2012年)7月9日重要文化財指定

 松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。
その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平賴壽氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。
この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の問などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。
 昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。



この披雲閣に、大目標のスタンプが置かれているわけですが、
ちょっとしたお土産物が並んでる窓口を覗いたら、やっぱり、窓も閉まってました。

ガラスのすぐ向こう側にスタンプが見えるのに…。

でも、庭園の世話で朝イチから来ているスタッフさんがいるかもって、料金所の人が云ってたので、
あきらめきれず、御殿の裏側に回ってみました。

裏側と云っても、通路として通っていいところです。


御殿の東側、裏口的な通路へ。


こちら側は、明治大正期の日本家屋と云った風情で、

子供の頃、友達の家とか親戚の家とか旅先で見たような路地の雰囲気がありました。

でも、こちら側にも誰もいなくて。

 槙の間、松の間側へ。

 あきらめて、月見櫓へ。

 手前が「渡櫓」で、
 奥に「水手御門」と「月見櫓」。


高松城北之丸月見櫓(続櫓)、水手御門、渡櫓

昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定

 高松城(玉藻城ともいう)を築城した生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640年)に出羽の国の矢島1万石(秋田県由利本荘市矢島町)に移封されました。
その後、寛永19年(1642年)松平賴重公(水戸黄門の兄)が東讃岐12万石の領主に封ぜられてこの城に入って以来、明治2年(1869年)まで11代228年間、松平氏の居城であり、日本三大水城の一つに数えられています。
 月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた郭の隅櫓として延宝4年(1676年)2代賴常公の時代に、完成されたものです。
ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。
かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
 月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや外壁に装飾的な黒い長押を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。
これらの諸建物は松平家から松平公益会に移管され、さらに昭和29年(1954年)1月に高松市が譲り受け、翌年3月から国庫・県費補助を得て解体復元工事に着手し、約1700万円を費やして同32年(1957年)3月に竣工しました。



石段を上がって塀の外を覗いてみました。

 お堀と道路の向こうは海。
けれど、江戸時代まではこの塀の外はもう海でした。
小豆島や廃止された宇高国道フェリーの乗り場がある場所は、後世、埋め立ててできたのでした。


つづく。
関連記事

12:00:00 | コメント(回答)(0) | page top↑
次は川之江城 4 川之江城三の丸と東予温泉<<古い方< 最新記事 >新しい方>>高松城、丸亀城 2 高松城 2
コメント
コメントの投稿














←管理人以外は読むことができないメッセージにしたい場合はチェックを

「バカ」「アホ」「変態」「狂」... 使いようによっては他人を不愉快にさせるワードは投稿不可となっています、ご注意下さい。

コメントいただくのはとてもうれしいんですが、
「送信」ボタンを押す前にいま一度、読み返してみて下さい。

「よく読んでもらえば分かる」「行間を…」ということを相手に望むのはわがままです。

お怒りな場合でも、大人な対応でぜひ、よろしくお願いします。 <(_ _)>

お山でも町でもメールでも、自分がイヤなことは他人にしてはいけませんよね。

なお、当ブログは一個人のブログです。
コメントの削除や受信拒否の設定をする・しないも正直、私個人の勝手です。
不愉快だと思ったコメントはばっさり削除します。
違う意見を持つ人と共存できないクレーマーと判断したら、即、ブロックします。

相手が聞く耳を塞いだら、どんなに正論でも一生届くことはないでしょう。

いろいろ、すみませんが、ご了承下さい。

次は川之江城 4 川之江城三の丸と東予温泉<<古い方< 最新記事 >新しい方>>高松城、丸亀城 2 高松城 2
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。