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高松城、丸亀城 2 高松城 2
2015 / 08 / 10 ( Mon )
高松城の天守台へ向かう前に、ちょいとやっておきたいことがありました。


内苑の縁、お堀に沿ってる西側の小道を移動し、南側に行ったとこにある、

タイのエサやり体験!

「鯛願城就(大願成就)」の幟が目印。

エサは100円のガチャガチャで購入します。

 海水を取り込んでるお堀ですから、

タイだっています、エサを撒けば、池のコイみたいに、わっ!と…なるはずでしたが、
朝は食欲がないのか、思ったほど食いついてくれませんでした。

おまけに、ガチャガチャのカプセルにはエサと一緒にクジも入ってて、
当たりが出たらバッジやステッカーがもらえるそうなのですが、残念ながら、ハズレでした。

またあきらめて、天守台へ。


お堀の向こう側にある石垣の島が「天守台」。

 天守台にはこの「鞘橋」を渡ります。

鉄門から二の丸へ戻り、

料金所に入ってすぐにあった分岐の通路を進めば、

「鞘橋」。

鞘橋

 鞘橋は、二ノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落とすことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。
絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。
当初は「らんかん橋」と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干が描かれており、屋根のない橋でした。
その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付の橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。
現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚が木製から石製に替えられたことが古写真から判明しています。
 昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸側の一部が解体され、平成23年に修理されました。
橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。



 西側にはコトデンの高松築港駅。

東側、内堀の風景。

 渡り終えると、石垣のクランク。

石段を登ると、いよいよ本丸跡。

 左に曲がった、東の奥に天守曲輪。


これが天守台跡の石垣です。

まるで、トーチカ(防御陣地)みたい。

あの石垣の上に、「玉藻城」とも呼ばれた、3層5階の天守が載っていました。


鉄パイプな手すりを持って石段を上がると、
 
石垣に囲まれた天守の地下・基礎部分を目にすることができます。

これら礎石は、石垣を修理するため、発掘した際に見つかったものです。

 石垣の上に上がることができます。

 テラスみたいになってます。
駅前のビル群に比べたら、背の低い展望台ですけど。


鞘橋を見下ろして。
橋脚のまわりにタイが群れてました、あそこのタイなら、エサ、食べてくれたかなぁ。

北から東、南にかけてのパノラマ。

西側。


披雲閣の屋根。

 天守の基礎。

高松城天守地下1階の発見

 高松城の天守台には、かつて3重5階(3重4階+地下1階)建ての天守が建っていました。
右の写真に写っているのは松平賴重が生駒期の天守を改築し、寛文10(1670)年に完成した天守です。
この天守も老朽化により明治17(1884)年に取り壊され、その跡に初代藩主賴重を祀る玉藻廟が建築されていました。
 石垣修理工事に伴い、天守台の発掘調査を実施しました。
調査の結果、天守が建てられていた当時の地下1階の基礎構造がほぼ明らかになるという大きな成果をあげました。
 天守の地下1階は東西13.6m、南北12.2mの空間の中に、「田」の字状に52個の礎石が並べられ、さらに礎石で区切られた4箇所の区画中央にはそれぞれ掘立柱が建てられていました。
礎石には土台の痕跡が残っており、そこから地下1階が当時の寸法で東西六間、南北五間であることが判明しました。
この寸法は『小神野筆帖』という文献に記された内容と合致しており、文献の記載が正確であることが判明しました。
 発掘調査成果とあわせて、城内に現存する櫓との比較や、古写真・絵図・文献資料などから、天守の構造について復元案を作成しています。
ただし、発掘調査でも分からなかった、内部の階段位置や各階の内装についての情報はいまだ得られておらず、今後の新資料の発見と調査の進展が待たれるところです。




高松城の歴史
 天正15(1587)年に讃岐1国を与えられた生駒親正は、翌16年「野原」と呼ばれていた当地を「高松」と改め、高松城の築城を開始しました。
天守も生駒時代に造られており、天守台石垣からは生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。
生駒氏の治世は寛永17(1640)年のお家騒動による転封まで4代54年間にわたりました。
 その後寛永19(1642)年に松平賴重が入封し、寛文10(1670)年から天守の改築、東ノ丸・北ノ丸の新造といった事業を実施しました。
2代藩主賴常の代には、月見櫓や艮櫓の建造、大手の付け替え等が行われ、概ね現在の高松城の形が出来上がります。
その後、明治3(1870)年に廃城されるまで、11代にわたり松平家の居城として、東讃岐における政治の中心的役割を果たしてきました。
 明治期に入ると、外堀は埋め立てられて市街化が進み、海に面していた城郭の北側も埋め立てられます。
また、中堀よりも内側は兵部省(のち陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却され、天守も老朽化を理由に明治17(1884)年には解体されています。
明治23年(1890)に再び松平家に払い下げとなったのちに、天守の解体された天守台には初代藩主賴重を祀った玉藻廟が建てられました。
昭和29(1954)年に高松市の所有となったのち、昭和30(1955)年には国史跡に指定され、玉藻公園として市民に開放され、現在の姿になっています。

天守台石垣の修理工事

 天守台石垣は築城後420年が経過しており、石材の割れや抜け、はらみ出しといった傷みが著しく、崩落の危険性が高いと判断されたため、平成17年度より石垣の修理工事を開始しました。
この工事は、天守台石垣をほぼすべて解体し、再度積み上げるという全国的に見ても例の少ない大掛かりなものです。
石垣を本来の形状に修理するだけでなく、石垣が傷んだ原因を解明し、修理方法の選択に活かすため様々な調査研究を行いました。
石垣は文化財として重要な価値を持つものであり、修理に当たっては適切な記録を行いながら、伝統的な工法で本来の形状に戻すことが求められます。
一方で破損の原因を解消するため、最小限の現代的な工法も取り入れています。
こうした種々の検討を行いながら、一連の工事は平成24年度に完了しました。
貴重な文化財を後世に伝えるため、今後も継続的な調査・整備に取り組んで参ります。





と云うわけで、高松城お散歩終了。

スタンプはもらえずじまいでした。

料金所で、「ダメでした、出直してきます」と声をかけ、表に駐めてあったレンタサイクルでホテルに戻ました。

朝食をいただき、シャワーを浴びて着替え、仕事に向かいました。

その後、大きな、小さなミスもすることなく、順調に仕事をこなしていたら、思いの外、早く帰れることに。

ホテルに戻った後、また自転車借り、ダッシュでお城へ。

西の門の料金所を覗いたら、なんと朝と同じ人が受付を。

日の出から日没まで仕事? ってことはまさかないと思うけど。

スタンプがもらえなかった僕のこと、覚えていてくれて、おまけに朝買ったチケットで入園させてくれました。
(チケットは一日有効ってわけじゃないと思うけど、臨機応変な対応に感謝!)

披雲閣に行ったら、窓口、開いてて、スタンプ、ゲットすることができました!

笑顔で足取りも軽く、西の門へ戻ると、料金所の人にちゃんとお礼を言って外へ出ました。


つづく。
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