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青春18きっぷ旅 3 9日目 安土城 2
2016 / 05 / 30 ( Mon )
安土城の大手道を登ってます、まだ道半ば。

 左折して、少し登ったところで、
 右に曲がり登ります。

 ゆるくくねくねしながら上へ、上へ。


その石段の途中にも石仏が使われています。

道幅が広くなり、左にカーブする、その内側は、

武井夕庵邸跡です。

武井夕庵は、信長の義父・斎藤道三に仕え、斎藤氏の滅亡後は信長の有力な官僚であった人物です。

槍働きとは無縁、表舞台に立つ人物じゃないので、余り知られていませんが、
越前・加賀で一向門徒衆を撫で斬りした信長の暴君ぶりを諌めることもできた忠臣であったそうです。


山頂に近づき、南西の伸びる尾根に乗って道はなだらかになりました。


石を数段積み上げた、ステージのような平地が現れました。

信長の嫡男・信忠の屋敷と伝えられている場所です。
山頂・天主跡へは、階段を登り、屋敷跡を通って行きます。

写真左の道は帰りに通る下山道です。


信長の後継者だった信忠は、とても優秀な人物だったことが近年、明らかになっています。

本能寺の変で彼も討たれましたが、もし、京を脱出していたら、秀吉や家康の時代は来なかったかも知れません。

 尾根に沿って石段が続いています。
写真奥に向かって下る七曲がりと呼ばれる道がありますが、現在は未公開。

実は、ほかにも未公開の場所が多数あります。

2006年頃までは料金所もなく、七曲がり道や百々橋と呼ばれる入口からも入山できたそうです。

ほかの登城道がオープンにならない一番の理由は、文化財保護の意味もありますが、
拝観料を効率よく徴収するには、出入口はひとつだけの方がいいからでしょう。


 最初はまっすぐで幅もある石段。
とても立派な石段道ですが、発掘調査時は、このような姿だったわけではありません。

どこが道やら、どことどこが繋がっているのかも分からない状態だったそうです。

なので、残念ながら、正確に復元された石段でもルートでもありません。


 とは云え、ムード満点。
左右の小高い並木に霧がまとわりつき、まるで外界からシャットアウトされたような静けさに包まれていました。

こんな寒い雪の日には訪れる人もまばらで、誰に邪魔されることなく、思索にふけることができました。


信長はどうしてこのお山に目をつけたんでしょうね。

まぁ、当時の最大の敵、大阪の本願寺と北陸の上杉との対決に備えた中間地点であるとか、
琵琶湖沿岸は交通の要衝で京にも至近距離だとか、いろんな考え方があるけれど、
個人的には、いずれも、しっくりこないのが正直なところ。

広大な支配地、選び放題、ほかにも候補地はあったろうに。

京や大坂、岐阜では得られない、それがなにかは分からないけれど、
信長の琴線に触れたような、心打つようなことがこの地にあったのではと、ふと、思ったのでした。


 黒金門跡直前、左側に、
 織田信澄と森蘭丸の伝屋敷跡。

 織田信澄(津田信澄)は、信長の甥。
父・織田信行(信勝)は、兄・信長に反旗を翻し、討たれましたが、信澄は側近として信長が死ぬまで仕えました。

「一段の逸物也」や「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」など、
武将としての評価は分かれるのですが、信長の信任は厚かったようです。

明智光秀の娘を妻としていたため、本能寺の変の後、間もなく、殺害されました。

 森蘭丸(成利)は、信長の近習。
近習とは、主君のそば近くに仕える者で、身の回りの世話のほか、身辺警護もしていました。

信長の家臣・森可成の三男で、12歳の頃から信長の小姓(お世話係のようなもの)として召し抱えられました。

やがて、事務官や使者、秘書の役目も果たすようになり、常に信長の側にいたため、武将じゃないのに有名です。

彼もやはり、本能寺の変に巻き込まれ、信長と共に討ち死にしました。

 黒金門跡です。

 折れ曲がる枡形になっています。

 解説。

黒金門跡

 ここは、安土城中枢部への主要な入り囗の一つである黒金門の跡です。
周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。
平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。
多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。
壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。

 高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。
東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。
高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。
外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。
この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。

 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。
しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。
様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。

 平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。
ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主ヘ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。



 主郭部平面図。
黄色い部分が、現在、一般公開されている部分です。

さて、伝羽柴秀吉邸跡など、“伝”の部分にまつわる話をしておきます。

ここ、黒金門の呼称もそうなのですが、江戸時代に書かれた絵図、
 「近江国蒲生郡安土古城図」が元となっています。

この絵に屋敷跡の名称として秀吉や家康の名前が登場し、それが“伝”の根拠となっています。

この絵の制作年は貞享4年(1687)、安土城が焼失した天正10年(1582)の百年後のことですので、
誰がどこに住んでいたかの部分は、どこまで正確か、怪しい部分があるので、“伝”なのでした。

「近江国蒲生郡安土古城図」はネット上に公開されています。
 → 早稲田大学図書館

 クランク部分を抜けると、

丁字路になっていて、左に行くと伝長谷川邸跡、天守は右へ、石垣に沿って進み、
 反時計回りに登って行きます。

 安土山は標高198mしかないけど、山頂はそれなりに寒いみたいで、雪も溶けてません。

大きな水たまりを避けながら歩いて、
 また、石段を登ると、

二の丸と本丸・天守台の分岐になります、左の石段を上がれば、
 二の丸です。

階段上がって右奥に平地があり、大きな水たまりの先に石塀が見えました。


「織田信長公御廟所」です。

信長の一周忌に秀吉が建立したそうです。


立ち入り禁止なので、入口から垣間見るのみ。


信長公のお墓です。


本能寺の変後、信長の遺骸は、光秀らが懸命に捜索しましたが、髪の毛一本、見つけることができませんでした。

骨まで灰になってしまったのか、それとも、何者かの手によってすでに持ち去られてしまった後だったのか…。

なので、秀吉はこの御廟に、遺灰の代わりに本能寺の灰を埋葬しました。

 この入口に百名城スタンプがあります。
ちなみに、駅裏にある安土城郭資料館にもスタンプがあるそうです(観音寺城のスタンプも)。

 階段のところまで戻り、
 石垣に沿って進むと、
 開けた場所に出ました。
本丸跡と云われている場所です。

 解説。

本丸跡

 天守台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。
東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。
昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置されたll9個の建物礎石が発見されました。
7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。
4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。

 礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。
豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。
大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。

 なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。
「信長公記」には天主近く「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。



千畳敷と呼ばれた安土城本丸御殿の跡は、しんしんと雪の降る音のみが響いていました。


 東へ進むと、
 いまは通行止めになっている南東出入り口があります。

 北東側にも通行止めになっている場所があります。


つづく。


青春18きっぷ旅 3 メニュー

1日目
松山~大阪
~名古屋

2日目
伊勢神宮内宮 1 2
伊勢神宮外宮
伊勢~東京

3日目
靖国神社
北の丸公園
皇居東御苑 1 2
丸の内 秋葉原

4日目
上野~福島
福島~山形
山形市内
山形城跡
蔵王温泉へ

5日目
蔵王温泉スキー場 1 2 3 4 5
蔵王温泉街 1 2

6日目
蔵王温泉~山形~仙台
仙台城跡 1 2
仙台~福島~黒磯~東京

7日目
東京~小淵沢
小淵沢~塩尻~名古屋~大阪

8日目
今宮戎神社・十日戎
大阪城 1 2 3
大阪の夜

9日目
安土へ
安土城 1 2 3 4
京都東山散策 1 2 3




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