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ご開帳と葵祭と姫路城の旅 4日目 京都御苑 3
2016 / 06 / 15 ( Wed )
京都御苑を散歩中。

清和院御門から御所の前まで戻ったところで、歩き疲れてきたので、日陰のベンチに逃れ、小休止。

薄曇りだけど、風があまりなく、蒸しっと暑い、おまけに御苑内の道は日陰がなく、なんとなく、ぷち熱中症状態。

のども渇いたけど、苑内には自販機なんか、そうそう、置いてない…。

あ、そう云えば、バッグにチョコレート、入ってたっけ?

と、思い出して、取り出したんですが、


暑さでどろどろ、まるでチョコレートドリンク状態…。

でも、食べたい…。

そこで、袋の口をすぼめ、底から絞り上げて、子供の頃に食べた、チューブ入りのチョコレートみたくして食べました。

すぐに漏れたチョコレートが口のまわりにべったり、でも、お構いなし。

目の前の通りが広いことをいいことに、恥ずかしげもなく、じゅるじゅる食べてたら、

「すみません、ちょっと、道を教えていただきたいんですけど…」

老夫婦に道を尋ねられ、びっくり。

慌てて覆った手のひらの下で、唇に付いたチョコを舐め回しながら、しどろもどろで返答しました。

僕は地元民じゃないんだけど、現在地は把握していたので。

あっちですよと指さしてあげると、老夫婦は感謝して北へ向かって歩いて行かれました。

いい大人が子供みたいに口のまわりにチョコが付けて…。

絶対、見られたよなぁ、恥ずかしい。


お散歩再開、北に向かって歩き出しました。

 京都御所の東側の林。
なにやら、看板が目に付いたので近づいてみました。

マツに生えたサクラ

 この倒れた木は「桜松」と呼ばれ親しまれています。
桜松は、クロマツの樹上十数メートルの所にヤマザクラが生育していたものです。
平成8年4月17日にマツが枯れ倒れてしまいましたが、サクラはマツの空洞を通り地上まで根を下ろしていたため、今も多くの花を咲かせ続けています。
当時、マツの樹齢は約100年、サクラは約40年と推定されていました。





ふむふむ、ホントに、枯れたマツを通り抜けてサクラが育ってるわ。


御苑のサクランボ。


御所の東側は森のように様々な木が生い茂ってます。

道は日陰もなく暑く、見物は特にないので、涼しげな林の中を歩くことにしました。

すると、点点と興味深い場所が見つかりました。

学習院跡。

学習院跡

 1779(安永8)年、 閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は、学問を大切にし、公家の教育振興に取り組みました。
次の仁孝天皇在位中の1842(天保13)年、幕府により御所建春門外に学習所の創設が認められ、孝明天皇在位中の1847(弘化4)年に開講しました。
公家をはじめ、御所に勤める役人たちとその子弟に国学や歴史等を教えることとし、「学習院」と呼ばれました。






橋本家跡

 1846(弘化3)年、孝明天皇の妹和宮親子内親王誕生の地といわれています。
和宮は、橋本実久の娘典侍の経子を母として生まれ、14年間この橋本家で養育されました。
公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁親王との婚約は破棄され、14代将軍徳川家茂ヘ嫁ぐこととなりました。
明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽力しました。
1877(明治10)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んで葬られました。





そばにあった、異なる樹が仲良く寄り添った、まるで公武合体みたいな木がありました。

 バッタガ原?
昆虫を守るため、ほとんど除草とかしないとか、夏は草ぼーぼーで立ち入るのも困難なほどらしいです。

近くに、コオロギの里って名前の付いたエリアもあるそうです。

獣道みたいな踏み跡をたどって北へ、北へ。

 京都御所の北東の角、辻に出ました。
その、林から道に出る所に看板が立ってました。

猿ヶ辻

 御所の築地塀が折曲った部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。
烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉暁王神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。
開国派とその反対派がせめぎあう幕末さなかの1863(文久3)年5月、公家で攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変)。




この角にお猿さんがいるみたいです。

その猿ヶ辻から東へ、また、門に向かって歩いてみます。

途中、左側に、

柵に囲まれた一画がありました。

中山邸跡

 幕末期の公家権大納言中山忠能の邸跡で、その娘権典侍慶子を母として1852(嘉永5)年、祐宮(後の明治天皇)が誕生しました。
敷地内仁はそのうぶ屋が遺っています。
祐宮はここで4年間養育されたといわれています。
敷地内の井戸は、祐宮2才の夏、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものといい、その名に因んで祐井と名づけられたといいます。



白い踏み跡が付いてる、写真真ん中道が東向き、写真右の道は、京都迎賓館への道、写真左の道は今出川口に続いています。

観光バスなどは写真左の今出川口から入苑しているようでした。


 踏み跡のある、東向きの道をまっすぐ。

この白い線みたいな踏み跡は、主に自転車が付けた跡です。

一周4キロもある広大な京都御苑は、地元の人にとっては通勤通学時の安全なショートカット路です。

けれど、砂利はタイヤがとられて走りにくく、観光客からも安全な真ん中を自然に走るようになります。

大勢が同じ場所を走った結果、自然に砂利がはけて走りやすい一本道ができあがったようです。

訪問時もたくさんのチャリダーが白い線をたどるように往来してました。



石薬師御門に到着。

 外から。

…と、ここまで来て、なんだか、門ばかり、見て回ってる感じが凄くしてきました。

ここまで、建物的な人工なものって、御所の築地塀か門ぐらいしか見てないような…。


猿ヶ辻まで引き返しました。


木陰の草花。

 木漏れ日。


猿ヶ辻から西へ、御所の北面に沿って移動。

観光バスが何台か、苑内に駐車してました。

 朔平門。


幕末、過激派と目されていた公家・姉小路公知が暗殺された事件の現場はこの辺り。

 朔平門からまっすぐ北に向かう道がありました。

そんなに遠くない距離に車道が見えて、いい加減、のども渇いてきたので、自販機さがしに外へ出てみることにしました。


右側に塀と門がありました。


桂宮邸跡だそうです、現在は宮内庁職員の宿舎になっているそうです。

桂宮は、伏見宮、有栖川宮、閑院宮と並ぶ、四世襲親王家のひとつでした。

世襲親王家とは、代々、親王宣下を受けることで、天皇との血統の遠近にかかわらず、親王の身位を保持し続けた宮家。

親王とは、単純に云えば、上位の皇族男子、ちなみに、女性の親王号は内親王です。



今出川御門に到着。

 外から。

門のすぐ外は、クルマの往来も多い今出川通り。


信号を渡った先は、同志社大学のキャンパスでした。

自販機求めてちょっとお邪魔、風通しのいい校舎の狭間でクールダウンさせてもらいました。



今出川御門から御苑に戻ったあとは、すぐ右側の林の中を歩きました。

 「京都御苑は森の博物館」。


ホントに森のよう。

近衛池の名が示す通り、この森のような一帯は、近衛邸の跡地です。

近衛家も、公家の五摂家のひとつで、その家名は、平安京の近衛大路に由来するそうです。

戦前、3度も内閣総理大臣を務めた近衛文麿は、近衛家の出身です。


林の中には児童公園もありました。


自然がたっぷり。


つづく。


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