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夏旅 5 九州旅 5日目 2 島原・原城跡
2017 / 10 / 05 ( Thu )


台風12号の接近で、熊本行きのフェリーが全航路終日欠航となった、この日。

陸路でしか、熊本を目指せないのですが、このまま、直行するのももったいない気持ちで、
タブレットで地図を眺めたり、カーナビで観光地検索してみたり。

どうしようかと悩んだ末、道の駅から南に下った南島原市にある「原城」に向かうことにしました。

当初の予定でも、天草へフェリーで渡る前に立ち寄るつもりでした。


道の駅を出発してすぐ、ワイパーが必要なくらいの雨となりました。

 給油。

国道251号線を南下しました、左側の車窓にときどき、海が見えました。

雲仙を頂点になだらかな斜面が海まで続いていて、右の車窓は河岸段丘状な地形に農耕地が拡がる景色でした。

国道沿いには小さな町が数珠つなぎにありました。

南島原市の中心地を過ぎて、かれこれ走った頃、「←史跡 原城跡」の案内を目印に、狭い路地へ左折。

ビニルハウスを過ぎると、
 「原城」看板。
看板は、二の丸出丸跡の丘の末端に立ってました。。

農道のような1.5車線の緩い上り坂。

 左側に小さな石垣がありました。

 石垣の上には、板倉重昌の碑。
徳川家康の近習からスタートし、1千石、1千2百石、最終的に三河深溝1万9千石の領主にまで出世しました。

島原の乱が勃発し、家光の命により追討使に任ぜられ、島原へ。

幕府軍は、国道251号線の向う側の丘陵地に布陣、いまでも、陣場や築山という地名が残っています。

 最初の総攻撃は、一揆勢の激しい抵抗に大敗北、
明くる正月、再総攻撃を試みるも大敗、その際、銃弾を受け、戦死しました。

この碑がある左側は三の丸跡

ゆるりとした上り坂を上がると、
原城温泉へ向かう左の道と、原城本丸跡へと向かう右の道に分かれます。
左の道を下った先には大手門の跡があります。

 古めの案内図。

もともと、原城は、有馬貴純によって築かれた、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。

佐賀の龍造寺氏からの度々の侵略もはねのけ、江戸の世を迎えるも、日向に転封となり、
代わって松倉重政が入封、島原に新城を構えたため、原城は廃城となりました。

島原城築城、城下町の新築などで財政が逼迫したとの口実で、松倉重政・勝家父子は、
実質4万石の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課す苛政を敷きました。

農民や村の責任者の庄屋からは妻や娘を人質に取り、その人質に藁蓑を着せて火を付け、
もがき苦しみながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んでいた、と云う記録すら残されています。

領内に多かったキリシタンへも弾圧を行い、顔に「吉利支丹」の焼き印、指を切断など、残忍な拷問を行いました。

昨夜、入浴した雲仙温泉郷にあった雲仙地獄では、熱湯を使った拷問や処刑が行われたとか。

農民にキリシタン、旧領主の有馬氏や小西氏らの改易によって大量発生していた浪人らも加わり、
キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた天草四郎を総大将に、組織化された一揆勢は、
寛永14年(1637)10月、代官所を襲撃して代官を殺害、ついに島原の乱が始まりました。

ちなみに、無理矢理、一揆への参加を強制された者も少なくなかったようです。

キリシタンの反乱でもあり、農民一揆でもあり、浪人たちによる謀反でもあったのに、
いまでも、島原の乱はキリシタンによる反乱だと、多くの人が記憶しているのは、
反乱をキリシタン弾圧の口実にしようとした徳川政権によるプロパガンダが成功した証しだったりします。

一揆勢は、島原城を蹂躙し、天草の富岡城も襲撃、けれど、援軍が望めない上、幕府による討伐軍の接近を受け、
不利を悟った一揆勢・約3万7千人は、廃城となっていた原城に立て籠もりました。

原城は、周囲4キロの三方を有明海に囲まれた難攻不落の天然の要害です。

その地の利を生かし、組織立った籠城戦を展開、最高で12万人にも及んだ討伐軍と死闘を繰り広げました。

討伐軍の中には、剣豪・宮本武蔵も参加していたようで、一揆勢からの投石で負傷したそうです。


 原城本丸方面へ。

道の左右は畑で、段丘の端を縁取るように林があるだけの、まるで野っ原のような丘の上。
左は二の丸跡、右は二の丸出丸跡。


雨の道を進むと、前方に、城郭跡らしい地形が見えてきました。

さらに左側には、海も見え、海岸ぎりぎりまで畑が続いていました。

本丸前の駐車場に到着。


車道は、本丸の右側を下って海の方へ続いていました。

ぬかるみのある無舗装の駐車場に駐め、雨の中へ。

傘を差しながらの城跡巡りとなりました。


駐車場すぐ近くにあった大きな窪地は、乱の際に築かれた空濠の跡。


石積みの上に「ホネカミ地蔵」と呼ばれる地蔵塔がありました。

乱終結から130年ほど後、城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め、供養したものだそうです。

合掌。


古い石垣を右に見ながら歩きました。

 乱の後、破壊し尽くされた石垣の跡。
もう二度と反乱分子に利用されることがないよう、原城はことごとく破去されました。

また、幕府は、同様の理由で、一国一城で利用されなくなった城跡の破壊を全国で推し進めました。

城跡の多くが原形をとどめていないのは、島原の乱が遠因とも云えます。


角を曲がって、道なりに本丸跡の上へ。

 「池尻口門跡」から本丸へ。

本丸跡は、真っ平らで広々とした公園のようなたたずまいでした。

石垣が、島原城築城用の石材として持ち去られたり、乱後にも破壊されたため、
実際の本丸はもっと高い場所にあったと思われます。


苔むした石碑は、乱の総大将、天草四郎時貞の墓標でした。

キリシタン大名・小西行長の家臣の子で、本名は、益田四郎時貞、洗礼名は、ジェロニモ、もしくは、フランシスコ。

関ヶ原の戦で西軍に味方した小西氏が滅亡した後は、四郎らは浪人百姓として生活していました。

恵まれた幼少期を過ごし、優れた教養があった四郎にはカリスマ的な人気があったと云われ、
その人気故に、若干15、6歳という若さで一揆軍の総大将となりました。

けれど、実戦経験もない少年ですから、単に戦意高揚のために利用されたとみられています。

籠城戦は4ヵ月に及び、食料も弾薬も尽いていた一揆勢は、12万人にも及ぶ幕府軍の総攻めにより陥落、
一揆勢はことごとく討ち取られ、四郎も本丸にて討ち死にしました。

首は、原城の大手門前に晒された後、一揆勢がポルトガルからの援軍を待ちわびていたという情報から、
ポルトガル商館があった長崎出島の正面入口前にも晒されました。

この墓標は、四郎の母が建立したと思われますが、民家の石垣から発見され、ここに移築されました。

 墓標のそばに立つ十字架の塔。


天草四郎像。

僕が想像する天草四郎は、映画『魔界転生』で沢田研二が演じた、地獄から甦った妖艶な天草四郎だったりします (^_^;)

エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり!


史跡原城跡 国指定 昭和13年5月30日

 原城は、明応5五年(1496)、領主有馬貴純(八代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。

 城は、県下最大の平山城で、周囲3キロメートル、41平方メートルの規模をもち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害である。
城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。

 慶長19年(1614)、島原藩主有馬直純(14代目)は日向国県城(宮崎県)に転封され、元和2年(1616)、松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。
松倉氏は、一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)からの島原城(森岳城)の築城にあたり構築用の石材として、この城の石垣等を運んだものと見られている。

 松倉氏の藩政は、領民へ苛酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など、きびしく行ったため、寛永14年(1637)10月25日に天草四郎時貞を盟主として、「島原の乱」が起こった。

 原城は、同年12月3日から寛永15年2月28日まで、領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれている)が88日間たてこもった「島原の乱の終焉の地である。

痛ましき 原の古城に来て見れば ひとも咲けり 白百合の花     新村 出




石碑や植栽は周縁部に配置され、中央はなにもなく、雨で寂しさがより募る本丸跡。

 徳川幕府の“キリスト教弾圧"。

 同時に松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。

 天然の要塞、原城はたちまちにして、修羅の巷と化した。

 時は、寛永14年12月(1636年)。

 幕府の討伐将軍板倉内膳正重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に、3回。
しかし、信仰に固く結束した、信徒軍の反撃に惨敗、重昌、自らも、戦死した。

 思わぬ苦戦に、あせった幕府は、老中松平伊豆守信綱を急派。

 陸海両面より、城を包囲、やぐらを組み、地下道を堀り、海上からは軍船の砲撃など、4たびの総攻撃。

 遂に、信徒軍の食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と、相次いで落城。

 主将四郎時貞をはじめ、老若男女、全信徒相抱いて、古城の露と消えた。

 これ、寛永15年2月28日である。

 その数、3万7千有余。

 思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ、幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。

 強大な武力と、権勢に立向った、その団結と、情熱、信仰の強さ。

 遂に、悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱に、当時の国政の上に、痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを、内外に喧伝した。

 史家をして、
「苛政に始まり、迫害に終わった。」
と、いわしめた島原の乱。

 優美にして堅固。

 かつては、日暮城とまで讃えられた原城。

 いま、古城のほとりに立って、往時をしのべば、うたた、感慨無量。

 信仰に生き抜いた、殉教者の、みたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じ得ない。

 ここに、320年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を、顕彰する次第である。

昭和32年5月25日 長崎県知事 西岡竹次郎



昭和の頃はまだ、キリスト信徒による宗教戦争との見方が強かったようです。


本丸跡はL字状に北へ下る形状になっていて、一段下がったところに、

本丸門跡がありました。

 破却された石垣。

真っ平らなこの場所は、三層の櫓があった櫓台跡、天主台跡と伝わっています。

田町門跡、天草丸があった海岸を見下ろして。


雨に濡れたお地蔵様、合掌。

 本丸から下ってきました。


 埋門跡。


本丸を振り返って。


下の門辺りは、枡形虎口、防備のためにクランク状に道が折れ曲がっています。

 駐車場に戻りました。

クルマに戻る前に、もう一度、ホネカミ地蔵さんに合掌しました。


幕府軍は、度重なる総攻撃の失敗により、力押しから兵糧攻めへと変化。

兵糧攻めは1ヶ月半にも及び、ある一揆勢の死体を検分したところ、胃のなかには海藻しか入っておらず、
弾も食料も尽き、飢えと疲弊で衰弱していることが分り、総大将・松平信綱は総攻撃を命じました。

乱に参加していた3万人は皆殺し、いや、虐殺され、遺体は壊した石垣の石や土で埋めてしまいました。

空濠にいた女子供を含む生存者3千人も3日かけて全員、斬首されました。

城全体に一揆勢の遺体が散乱、しばらく放置されました。

野に還る前にケモノに喰い荒らされたのでしょう、バラバラの状態で骨が見つかるそうです。


大反乱を起こす原因を作った島原藩主・松倉勝家は、責任を問われて改易処分となりました。

その後、屋敷にあった桶の中から出てきた農民の死体が決定的な証拠となり、斬首刑に処せられました。

大名が切腹さえも許されず、一介の罪人として斬首刑に処せられることは異例中の異例で、
江戸時代を通じて、松倉勝家、ただひとりだけです。

駐車場から海に向かってくぼんで見える地形は、蓮池跡と呼ばれています。

台風12号の接近で、朝見えていた熊本の山並みどころか、対岸そのものが見えなくなってしました。

海の色がどことなく悲しげに見えた、原城跡でした。


雨のせいか、訪問者はクルマが2台来たのみ。

1台は歴女っぽい女性、もう1台はカップルでしたが、女性は車内にとどまったまま、男性だけが本丸へ行かれました。

お天気は最悪だったけど、静かに心ゆきなく散策できたのはラッキーでした。


つづく。


夏旅 5 九州旅 目次

1日目
 松山→

2日目
 小倉港→宗像大社→マリンワールド
 太宰府天満宮→佐賀神埼

3日目
 佐賀神埼→祐徳稲荷神社→長崎

4日目
 長崎・軍艦島
 長崎市内観光→水族館→雲仙→島原

5日目
 島原・道の駅 みずなし本陣ふかえ・土石流被災家屋保存公園
 島原・原城跡
 島原・島原城
 島原→雲仙多良シーライン→佐賀城
 佐賀→三池炭鉱→道の駅 泗水

6日目
 熊本・道の駅 泗水→熊本城
 水前寺成趣園→球磨川
 球泉洞
 球磨→鹿児島

7日目
 鹿児島・多賀山公園→霧島神宮
 鹿児島市内・仙巌園→南州公園→鹿児島城跡
 鹿児島・知覧平和公園
 鹿児島・指宿

8日目
 鹿児島・山川港→フェリー→根占港
 鹿児島・佐多岬
 鹿児島・鹿屋航空基地
 宮崎・鵜戸神宮→極楽の湯→道の駅つの

9日目
 高千穂 1 高千穂峡
 高千穂 2 高千穂神社 天真名井
 高千穂 3 天岩戸神社 天安河原
 阿蘇→筋湯温泉→大分・湯布院

10日目
 大分・湯布院→九重夢大吊橋
 大分・宇佐神宮
 大分・中津 中津城→耶馬溪
 福岡・英彦山神宮
 福岡・小倉→愛媛・松山
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