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南予遺産の旅 14 三崎町
2017 / 12 / 04 ( Mon )
汗とホコリまみれになって旧三崎精錬所焼窯をあとにして、
三崎の町へ戻り、そのまま、佐田岬に通じる県道256号線を西へ。

道がよかったのは、国道197号線まで。

大体がセンターラインのない、1.5車線の道路が続き、
カーブも多くて、思った以上に距離が稼げません。


三崎町3つ目の南予遺産は、串の漁港にあります。

南予遺産のオフィシャルサイトの位置情報を元にたどり着いたのですが、
その位置はなぜか、民宿大岩さんになっていました。

で、隣の神社を訪ね、境内にあった石垣が、

三崎町3つ目の南予遺産、「野坂の石垣」だと思ってしまいました。

確かに、「野坂の石垣」の延長部分のひとつではありました。

でも、ホントの「野坂の石垣」は、ちょっと離れた場所にありました。

この日は神社の石垣だけを自撮りして次へと移動してしまい、
ホントの「野坂の石垣」は見ることができませんでした。


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ふた月後、ちゃんと見学・撮影しに戻ってきました。

 民宿大岩さんの前を海に出たところにある、
 巨大な石積みの壁が「野坂の石垣」です。

 石垣の断面。

 強い風を遮るために構築されたようです。

途中に、壁裏に建つ民家への出入り口、四角い穴も開いてましたが、
ちょうど真ん前におじいさんがずっと座ってたので、撮れませんでした。

でもまぁ、これで心残りはありません。


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さて、次も大変でした。

次の南予遺産は、「豊予要塞第二砲台跡」。

灯台に向かって進むと正野と云う小さな集落があって、
そこのヘアピンカーブの内側にあります。

 目印は、ガードレールの切れ目に立つ、
 「旧正野谷桟橋」の看板です。

看板の横の階段を下ります。

 すぐにコンクリート舗装の坂道に変わります。

ここもあまり情報がなくて、正直、たどり着けるか不安でした。

人の気配はあまりしなかったけど、廃屋ではなさそう。

 2軒目の民家。
モルタル建てのお家で、こちらこそ、誰も住んでなさそうです。

そろそろ、案内看板でもあるかな、と思いながら、
 どんどん下っていたら、
 とうとう、海まで出てしまいました。
写真の古い桟橋が「旧正野谷桟橋」です。

でもあれは、南予遺産ではありません。

んじゃ、どこ?


このときの僕は正直、焦っていました。

タイムリミットが刻一刻と迫っていたからです。

先のふたつの遺産で予想以上に時間がかかり、
大きくタイムロスしていたのも痛かったです。

それ以上に、心を急かせる理由がありました。

実は、最後の南予遺産、「佐田岬灯台」目前が道路工事で通行止めで、
1時間に10分しか通行できないタイプの通行止めなのです。

迂回路がないから、その10分間しか、灯台に行くことができません。

また逆もしかり。

帰りもその10分以内に出てこなければなりません。

さらには、最終的に、三崎の南予遺産カード配布施設に、
閉館時間の夕方5時30分までに到着する必要もありました。

道路工事現場が次、通行可能になるのが、午後2時ちょうど。

旧正野谷桟橋に着いたいまは、午後1時45分すぎ。

いまさら、遺産を無闇に探し回っても、2時には間に合えないかも…。

灯台からの帰りにもう一度、チャレンジしよう…。

そう決めて、坂道を走って登り返しました。

南予遺産の旅のフィナーレは佐田岬灯台で迎えたかったんだけどなぁ…。

また、汗まみれになって、バイクに飛び乗りました。


灯台の駐車場から2km手前の工事現場には5分前に到着。

2時ちょうどから1、2分待たされて、工事現場を通過することができました。

駐車場には灯台を見学に来たクルマやバイクが数台、駐車してました。


さっさと支度して、遊歩道へ。

灯台に来たのは十数年ぶりです。

おぼろげな記憶ながら、あの頃より、遊歩道がきれいになってる気がします。

手すりとか、舗装とか。

灯台までの道のりの大変さはよく覚えています。

往きは下りなので楽ですが、それでも15~20分は歩きます。

帰りはずっと登りなので、30分はかかると覚悟しましょう。

見学時間も入れたら、1時間近くはかかってしまうのです。

もし、工事現場の午後3時の開放に間に合わなかったら、
次は4時まで出ることができません。

最悪、4時に出たとして、それから、見つけ損なった南予遺産を探し出し、
5時半までにカードをもらえる施設まで行くとなると、
できないわけじゃないけど、結構、忙しい。

やっぱり、次の3時には脱出したい…。

と云うことで、半分、走りながら、灯台を目指しました。


そうそう、遊歩道の入口に、ウニや海藻を売るお婆さんがいて、
「ウニ、いらん?」と、瓶詰めのウニを手に、声を掛けてきます。

正直、ウニ、好きじゃないけど、相手がお婆さんだから、断りづらくて。

ああ云うの、困るわぁ。


 ひとつ目の森を抜けました。
灯台は、写真に写ってるお山・「椿山」を越えた向こう側にあります。

 昔の遊歩道が残る磯。

 次の森との間のキャンプ場。
昔の砲台跡です。

 灯台は、右上に登る遊歩道へ進みます。

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ふた月後に旧陸揚室を再訪したあと、佐田岬にも来てました。

工事現場の通過時間の関係で、よく、見学できなかったからで、
心残りを晴らすために、もう一度、足を延ばしてみました。

灯台手前の椿山の山頂には、
 軍事施設の跡が残っています。


ここには、移動式探照灯 = 移動できるサーチライトが格納されていました。

同時に、山頂の周りをぐるっと一周する遊歩道がありますが、
ここは、移動式探照灯が移動するためのレールが敷かれていた跡だそうです。


山頂には展望台があります。

 視点によってハートに見えるオブジェも。

 展望台からの眺めです。
佐田岬灯台や隣接する御籠島が眼下に。


写真左は、大分の高島、右奥は、大分の佐賀関。

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椿山を越えると、灯台の敷地へ、
そして佐田岬灯台は目の前です。

 最後のもうひと登り…。


南予遺産、「佐田岬灯台」に到着しました。

十数年ぶりの対面ですが、感動してるヒマはありません (^_^;)


反対側のテラスに回り込むと、「四国最西端」の碑がありました。

 灯台の姿を、パシャ。

 テラスから見た海。

 灯台のすぐ下の崖にある砲台の跡。

 岬の先端にある御籠島。
漁業施設によって陸続きになっていますが、
よく見ると、展望台やトンネル、昔なかったものができてました。


 さて、帰るか…。

と、思ったのですが、もうしばらく来ないかもって思ったら、
このまま、すぐに帰っちゃうのが、めっちゃ、もったいなく感じて、
20171011_0141_20171212000601686.jpg
 御籠島に行ってみました。
時間、ないのに…。

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坂の途中には慰霊碑があります。

そこから、崖にある砲台へ、昔は行けたのですが、
いまは崖が崩れて、結構、危ないです。

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階段を降りてみると、すっかり、観光地化されてました。

昔来たときは、立入禁止だったんですけど。

御籠島展望所

 佐田岬の先端に並ぶ小さな島が御籠島です。
地元ではオシマ(大島・御島)という呼び名でも知られています、面積約5,300㎡、標高わずか36mの小さな島ですが、江戸時代、海上安全の神様として瀬戸内海一円から広く崇敬を集めた野坂権現(現在の野坂神社)が、かつてはここに祀られていたという言い伝えがあり、現在も島は神社の所有地となっている神聖な島です。
太平洋戦争末期には洞窟式の砲台が作られ、戦後は蓄養池の建設によって半島と陸続きになりました。


畜養池(かん水畜養施設)跡

 半島突端部と御籠島の間を堤防で仕切った四角いプールは、「蓄養池」と呼ばれた漁業施設の跡です。
昭和42年(1967)3月、当時の三崎漁業協同組合が建設しました。

 蓄養池は自然の海水が流入する生簀となっているため、漁師が獲ってきたイセエビ・アワビ・サザエなどをここに蓄養しておくことで、市場への出時期を調節したり、稚貝を育成させたりして、安定的な漁業運営に大きく貢献しました。
平成22年(2010)を最後に、現在は使用されていませんが、海とつなかった池の中では今も魚たちの群れを見ることができます。



 畜養池沿いに歩いて島へ。
新しい遊歩道を登り歩いて、
 展望台へ。


きれいなモニュメントや真新しい看板。

ホント、いつのまに、って感じでした。

展望台から見た佐田岬灯台。

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島のトンネルは、後日、見学しました。

実はこのトンネル、洞窟式砲台と云う珍しいものがあった跡です。


洞窟式砲台跡

洞窟式砲台

 昭和20年(1945)、御籠島と佐田岬灯台下の崖に、洞窟式砲台が各2門ずつ、計4門が新たに建設されました。

 この御籠島洞窟式砲台は、岩盤をくりぬいた素掘りの洞窟で、内部で二叉し、船舶が航行する水路側(海峡側)に向けて2ヵ所を開口しています。
開口部はアーチ型のモルタル塗装で固め、大砲を据えた砲座部には、砲床を中心に射程範囲にあわせた扇形の溝や排水路を作り込み、発砲時の衝撃に耐えられるように天井と側面をコンクリートで固めて、頑丈な坑木を幾重にも組んで補強されていました。


豊予要塞とは

 豊予海峡を挟む愛媛・大分両県沿岸には、戦時中に敵国艦隊の瀬戸内海侵入をふせぐために「豊予要塞」が建設されました。

 愛媛県側の佐田岬には、大正15年(1926)に「佐田岬第一砲台」、昭和2年(1927)に「佐田岬第二砲台」が完成します。
しかし一度も実戦で使用されることなく、第一砲台は昭和19年(1944)、第二砲台は昭和9年に、火砲が撤去されました。

 しかし本土決戦が現実味を帯びてきた昭和20年(1945)、再びこの洞窟式砲台が整備されたのです。
(第二砲台跡やそれに付随した「旧正野谷桟橋」(国登録有形文化財は、現在も見学可能です)




トンネルは先で二股に分かれていました。

 左のトンネルの先には大砲。

三八式十二糎榴弾砲

どこからきたのか

 防衛省戦史研究センター所蔵(独立混成第百十八旅団閥係資料によると、この榴弾砲はもともと、豊予要塞の一部である鶴見崎丹賀砲台の腔発事故後の補填の一部として、昭和17(1941)に小倉補給所から転用し装備されたものでした。
その後,19年の有明臨時要塞建設に伴って、それまで佐田岬の砲台にあった十五糎加農砲が転用されたため、20年に鶴見崎にあったこの砲台がさらに佐田岬へ転用され、あわせて土窟式砲台へと改造強化されたものだそうです。

実物の一部を発見!

 平成28年5月、この洞窟入口部分の掘削作業中にこの大砲の実物の一部が発見されました。

 それまで地元では、大砲は戦後米軍か英軍が撤去したと伝えられていました。
今回の発見は車輪等の一部とみられ、全国的にも珍しい発見でした。
痛みが甚大ですが貴重な戦時資料として保存が検討されています。
(現在非公開)





 戻って、分岐を右へ。


崖っぷちに口を開いた展望台になってました。

 周囲の壁は、鱗状に塗り固められてました。

 波打つ崖。

 豊予海峡をタンカーが通過して行きました。

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寄り道した分、帰りも駆け足になりました。

でも、ずっと上り坂。

すぐに駆け足から早足、急ぎ足になって、また汗びっしょり。

時計を見ながら、なるべく急いで戻りました。

駐車場には午後2時50分に到着。

3時からの工事現場の通行止め解除に間に合いました。

あ、帰りもウニ婆さんに引き留められました。


つづく。
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