忽那山へ行こう! そのに
2019 / 01 / 31 ( Thu ) 花咲くお山に生まれ変わろうとしている忽那山のお山歩話しのつづき。
道路沿いの登山口から1段目の草っ原に上がり、 ![]() 山頂に向かって、どろぼう草のなかを進み、 ![]() 2段目に上がる道を登ります。 ![]() 2段目は狭いですが、多少凸凹しながら平らかになっています。 ここにも昔は猫の額ほどの畑がありました。 ![]() ![]() たくさんの「陽光桜」が植えられていました。 今冬は暖冬過ぎたのか、数輪、ピンクの花が咲いていましたが、 それもこれも日当たりよくなった除草作業のおかげでしょう。 ![]() 3段目へ上がります。 ![]() 10年前は、この3段目までは上がることができました。 でも、当時はここから先がまさにジャングルでした。 あと数十メートルだったのに…、が、心残りとなったのです。 でも今日は別でした。 ![]() ![]() 4段目へと向かいます、まぁまぁ登ります。 ![]() 山頂直下の林を目前に、道が狭くなりました。 ![]() こんな道端にもサクラが植樹されてます。 ![]() 5段目で道は左右に分かれるように見えます。 ![]() 右の方が道っぽいのでたどってみました。 小さなマウンドを越えながら、道は左に曲がり、 ![]() ![]() 林の中へ向かい、山頂へ直登していました。 でも、道っぽさはなくなってしまい、枝や根が邪魔して、傾斜も相まって、 普通の靴じゃ、登るのはとても大変そうです。 引き返して、左のルートを試すことにしました。 ![]() その途中に見えた、北側の眺めです。 真下に見えるのは、宮前川放水路と水門、 川向こうはコンテナヤード、ずっと奥に興居島の伊予小富士も見えました。 Y字分岐に戻り、 ![]() 踏み跡をたどって林の中へ入ります。 ![]() ![]() 岩がゴロゴロした場所があり、一瞬、城跡特有の崩れた石積みかと思ったけど、 岩盤が崩れただけのようにも見えました。 ![]() ![]() 横に生えた木を乗り越え、左下がりの斜面をずるずる滑りながら登ると、 前方に明るい場所が見えてきました。 ![]() 麓から、土手状の人工的な地形に見えた山頂部分です。 往時の姿が嘘のように、驚くほどきれいに刈り取られています。 ![]() 眺めがよさそうなので、まっすぐ進んでみました。 ![]() 東端に立つと、真下に、新しい建物が建ちつつある松山市浄化センターが、 奥のお山は垣生山です。 ![]() ここからははっきりとした道はありません。 ![]() 土手をよっこいしょと登りました。 ![]() すると、まるで林道でもあったかのような、らせん状のスロープが現れました。 これは多分に、防空機銃砲台があった頃の名残ではないでしょうか。 スロープを反時計回りに登ると、 ![]() この10年、ずっと心残りだった山頂についに到着です! ![]() 雑木がすっかり取り除かれ、さっぱりとした姿でした。 靴やズボンの裾がどろぼう草だらけになってしまったけど、 10分足らずかな、山頂にたどり着けてしまいました。 ![]() 山頂にも陽光がありました。 ![]() その根元に「登山用」と書かれたポールが転がっていました。 つい最近、雑木や雑草がきれいに取り除かれたばかりの山頂からの眺めをたのしみます。 ![]() ここいらには国際物流ターミナルがあったり、コスモ松山石油の工場があったり。 ![]() 松山空港の滑走路から飛行機が飛び立つ姿も眺めることができました。 奥の山並みは双海の海岸線です。 ![]() 海沿いの西側は背の高い木々で、瀬戸を望むことはできませんでした。 山頂までの登山道がもう少し整備された暁には、 できればこちら側の木々も整理して、だるま夕陽とか鑑賞できたら最高でしょうね。 ![]() 林の左端、南西方向に一段低い小さな尾根がありました。 その先端に小さなクレーター状の地形が上から見えたので下ってみました。 ![]() 直径3mほどのすり鉢状の地形は、対空機銃砲座を置いた塹壕のように思えました。 ![]() 小クレーターからの眺めです。 ![]() ![]() こちらから眺めた、ドーム状の山頂。 ![]() かすかな踏み跡をたどって戻りました。 実はこの日、山頂まで2度、登りました。 と云うのも、最初はホントに山頂まで行けるとは思っていなくて、 GPSログも写真撮影もせずに登ってしまいました。 ![]() なので、一旦、下山。 この記事の写真はみな、登り返したときに撮ったものです。 ![]() ![]() 2度目の下山は、Y字分岐・右の直登ルートで下ってみました。 ![]() 林の中は木が混んでいる上、かなり急斜面で崩れやすい腐葉土。 たいした高度差ではないのですが、おすすめはしません。 ![]() なんとか降り立り、山頂を振り返って。 根に足を取られ転がり落ちると、海まで落下してしまいそうで、 あまりおすすめしたくないルートでした。 でも、いまのように切り拓かれていない頃は、 このルートしか山頂にアタックしようがなかったのかも知れません。 ![]() 下山後、靴やズボンにびっしりついたどろぼう草を取り除くのに、 登山に要した時間より多くかかってしまいました (^_^;) さて。 ちなみに、忽那山は、「轡 山」もしくは「銜 山」と書いて、 「くつわやま」と書いてた時期もありました。 「轡」「銜」は、「猿轡(さるぐつわ)」のくつわ。 馬が口にはんでる馬具・「はみ」です。 忽那山城(もしくは轡山城・銜山城)は、忽那因幡守藤原通定が居城しました。 応永2年(1395)頃のことです。 南北朝時代には、中島の泰ノ山の城主だった忽那式部小輔が入城し、 以来、忽那氏が代代、城を治めてました。 登山道沿いにあるわずかな平地が往時の曲輪跡かも知れません。 でも、戦前、松山海軍航空隊基地の砲台建設時に地形が破壊・改変され、 さらには、浄化センターなどの建設で、 城跡の名残も消えてしまった可能性もありますが。 永禄8年(1565年)、豊後の大友氏が伊予に侵攻した際には、 当時の城主・忽那通著が、来島通康、村上武吉らと共に大友軍を撃退、 城も守り抜きました。 通著は、織田信長の時代には、逆に豊後に出陣したりもしました。 忽那一族は、秀吉による四国攻めで討ち死、滅亡したそうです。 ちなみに、岩子山の西麓には、忽那通著らをお祀りした「忽那社」があります。 刀剣を奉納すると、足の病気にご利益があるそうです。 忽那山の山麓、浄化センターの辺りは、陸軍歩兵第22連隊の小銃射撃場があったり、 航空隊が使用していたりしました。 と云うわけで、念願の忽那山に登頂することができました。 正月早早、こいつは縁起が良いやって感じで年の初めを過ごすことができました。 あの陽光桜が咲いて散るまでは、誰でも簡単に山頂に立つことができると思います。 GW以降は背の高い雑草が勢力を取り戻し、 羽虫がぶんぶん、クモの巣が行く手を阻むので、 登るならいましかありません。 誰でも簡単に登れるようにしてくれたサクラ植樹の団体さんに、 心の底から感謝申し上げます。 10年なんてあっという間。 次の10年後には、あのサクラたちが咲き誇り、 お山が紅蓮に染まった姿を見ることができるかも知れません。 近所の小学校の春の遠足の目的地にもなっているかも。 それでは、また、次のお山歩まで。 |
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