北アルプス奥穂高岳で防災ヘリが救助作業中に墜落する事故が起きたのは先月の11日。
事故から一ヶ月、まだ記憶に新しいと思います。
遭難者を救助していた県防災ヘリ「若鮎(わかあゆ)2」に乗っていた県防災航空隊に所属する操縦士の
朝倉仁さん(57)、整備士の三好秀穂さん(47)、副隊長の後藤敦さん(34)が亡くなられました。
遭難者・救助される側を中心に物事を捉えがちですが、山岳遭難では救助する側も命がけです。
助ける側にも、帰る家があり、守るべき家族がいます。
今日は遺された家族のお話です。
朝日新聞から、お父さんとの約束、ぼくは守る 防災ヘリ墜落で殉職

後藤敦さん(左後ろ)の職場を訪れた妻の真澄さん(右後ろ)、長男の俊輔君(右前)、長女の真優ちゃん。
後方は「若鮎」=08年11月、岐阜県各務原市の県防災航空センター
北アルプスで起きた岐阜県防災ヘリコプターの墜落事故から、11日で1カ月。
殉職した県防災航空隊員のうち最年少だった後藤敦さん(当時34)=同県笠松町=の長男俊輔君(8)は今月、少年野球チームのキャプテンに選ばれた。
父と約束した毎晩の練習も欠かさない。
消防時代の後輩は、先輩が残した言葉を今も強くかみしめる。
笠松町民グラウンドで9月23日、地元の少年野球チーム「松枝野球」の紅白戦があった。
マウンドには「初登板」となる小学3年の俊輔君。
4年生チームを相手に先発し5イニングで約50球を投げた。
観戦した母真澄さん(35)はこみ上げる涙で、息子の笑顔を見ていられなくなった。
初登板はもともと、墜落事故翌日の9月12日の予定だった。
息子の晴れ舞台をベンチから間近に見ようと、チームのコーチの一人だった父はユニホームを新調していた。
「ちゃんと投げたよ」。
試合後、俊輔君は自宅に戻り、父の遺影と飾られたユニホームのそばに駆け寄った。
父は、高校の野球部でエースだった。
俊輔君はよちよち歩きの頃からおもちゃのバットを持って遊び、父とのキャッチボールに興じた。
ゴム跳びで足腰を強くする、手首のスナップを鍛える……。
父と約束した毎晩のトレーニングは今も続けている。
今月3日には、3年生チームのキャプテンになった。
「天国へ行ったら、このボールで野球しようね」。
父と使ったボールにこう書いてある。
先月、自宅を弔問した県関係者には、妹真優ちゃん(7)と「パパをかえして」とつづった手紙を渡した。
「航空隊に入りたい」。笠松町の救急隊員だった敦さんが両親に打ち明けたのは3年前。
県防災航空隊は、県内の消防本部から優秀な人材の派遣を受けている。
任期は3年。
反対していた父学さん(59)と母とし子さん(58)も「夢をかなえられるなら」と熱意に折れた。
敦さんは来春、元の職場に復帰する予定だった。
8月初め。
地元の羽島市民プールの一角で、救急隊の後輩・平田栄治さん(31)らが水難救助の訓練をしていると、敦さんが子ども2人を連れて突然、姿を見せた。
「自分は空からの救助をがんばる。陸や水上で1人でも助けられるよう、がんばれ。応援しとるぞ」
この激励が、後輩たちにとっては先輩の最後の言葉になった。
平田さんら後輩は事故後、敦さんの写真を集めてDVDにまとめ、遺族に届けた。
俊輔君が父と使ったボールなど思い出の品々とともに、自宅の遺影の傍らに並べられている。
山には死にに行くわけじゃないから、普通、死んだ後のことなんか想像しません。
でも、もし、自分が山で命を落とすようなことがあったとしましょう。
自分の死が引き起こす悲しみに暮れる人たちを指折り数えてみて下さい。
親兄弟、友人知人、恋人…、誰にだって一人や二人、想像することができると思います。
けれど、万が一、二重遭難で命を落とすかもしれない救助隊員の家族にまで想像を拡げられる人はまずいないでしょう。
でも、現実には人命救助中に命を落とされる方が少なからずおられ、
父親やパートナーを失い、涙をこらえて生きておられる人たちがたくさんいらっしゃいます。
好きなことやって死ぬのは人としてある意味、本望かも知れません。
けれど、そのことが見ず知らずの人の人生まで変えてしまう恐れがあることを、
一度でもいいので想像してみて下さい。
無事、生きて還ることだけでも充分、意味があるのです。
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