富士山、雪解け進んでたのに、また、積もったみたい。
山梨日日新聞から、あと20日で山開きなのに… 富士山雪化粧
雪解けが進んでいた富士山が、再び7合目付近まで冠雪した。
10日はふもとの富士吉田市から水田の向こうに青空をバックにした雪化粧した姿が見えた。
市富士山課によると、富士山は5月以降、暖かい日が続き、8合目まで雪解けが進んでいた。
6月8日から9日夜にかけて季節外れの降雪があり、気象庁によると、8日の富士山頂付近の最低気温は氷点下8.1度まで下がった。
富士山の山開きまで約3週間となり、同課職員は「ここまで順調に雪が解けていた。
山開きまでに暖かくなってくれないと…」と気をもんでいる。
昨年は残雪が多く、山開きの7月1日午前中は8合5勺と山頂間の登下山道が通行止めになった。
今年は6月23日、県などが残雪の状況を調査し、26日には山小屋関係者でつくる「富士山吉田口旅館組合」などが雪かきを予定している。
田んぼに逆さ富士 (*⌒ー⌒) にこっ♪
お天気がよかった金曜日、法事で高井の方まで行ったんですが、
半袖姿でスクーター乗ってたら、なんとなく肌寒かった。
気温も日差しも夏っぽかったけど。
3000mオーバーの富士山頂は氷点下8.1°かぁ。
登山者にとって、温度差が最大の敵ですね。
今年こそ行きたいなぁ。
宝くじでも当たらないかなぁ、って、その前に買わないと当たらないか (^^;)
と、そんな話題だけじゃつまらないので、もひとつ、富士山。
山梨日日新聞から、昭和初期の富士登山克明に
「強力」利用料心得掲載 案内資料、富士吉田で発見

昭和初期の富士登山の様子を伝える登山案内=富士吉田・富士山レーダードーム館
昭和初期に富士山の登山者に配っていた登山案内が富士吉田市内で見つかった。
富士山有料道路(富士スバルライン)開通前のふもとからの登山方法、荷物を運ぶ「強力(ごうりき)」の利用料金など、当時の富士登山の様子が詳しく分かる貴重な資料。
寄贈を受けた富士山吉田口旅館組合の井上洋一組合長は「富士登山の文化を後世に伝えていくため、大切に活用したい」と話している。
見つかったのは1929年(昭和4年)と33年(昭和8年)に、当時の山小屋経営者らが組織した「富士山北口合同組合」などが発行した資料3点。
同市上吉田の住民が自宅に保管していた資料を「有効に使ってほしい」と井上組合長に寄贈した。
29年版は縦17センチ、横50センチの活版印刷。
富士登山の案内や心得、山小屋の宿泊料金、金剛づえや草履、ぶどう酒、ビール、サイダーの価格、写真撮影代などを細かく示している。
登山案内からは、北口本宮冨士浅間神社の裏に乗用車や馬が待機し、車は1合目手前の馬返し、馬は5合目までを往復して登山者を運んでいたことが分かる。
また5合目などに各地の山から移植した県営の高山植物園があったことも確認できる。
「強力」は1組の定員が5人までで、吉田口登山道を利用する場合は4円が定価。
また当時は8合目に郵便局があり、登山者がふもとから8合目に荷物を発送できることを伝える文面もある。
井上組合長は
「長く山小屋の経営に携わってきたが見たことがない資料。
夏山シーズン前に多くの人に見てもらいたい」
と話している。
資料は今月21日まで、同市新屋の富士山レーダードーム館で展示している。
昔はずっと麓からえっちらおっちら、登ってたんですよね。
ヒマラヤで云うところのシェルパにあたる強力さんが荷物を担いでくれたりして。
いまでも5合目の登山口には半分観光用の馬がいて、乗れたりしますね。、
(鳥取砂丘のラクダと一緒で、馬と記念写真撮るだけでも有料だったりするけど)
石原裕次郎23回忌法要記念でオンエアされた映画『富士山頂』には、馬で荷物を運ぶ強力さんの話も登場してました。
「ブルドーザーなんかで登れるもんか! 馬でなきゃ無理だ」って、自信と誇りが現れた台詞が印象的でした。
でも、ブルドーザーで上れちゃうことが証明され、馬が時代後れになってしまう瞬間が訪れてしまいます。
記事の資料は昭和初期のもの、ほんの80年前のもの。
なのに、すっかり忘れられちゃってたなんて。
みんな、忘れすぎ。
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